2016年10月13日木曜日

ニーチェを愛する日本


2、3年前だったか、BBC(英国放送協会)ラジオ 4の番組で、日本では、「ニーチェの言葉」(写真下)という本が、すごいベストセラーになって、100万部以上売れた、とたまたま口にしたら、その番組の司会者は、ニーチェがそんなに日本で人気があったとは、と驚いていた。


実を言うと、日本人がニーチェを好きなことは、周知の事実なのだ。去年は、生田長江という翻訳家が、ニーチェの作品を翻訳し始めた100周年記念だった。長江は、20年かかってニーチェの全作品の翻訳をするという巨大なプロジェクトに取り組み、12巻に及ぶニーチェ作品全集を作り上げた。そして彼の作品は、非常に影響力を持つことになった。

私たちが、「吾輩は猫である」、「それから」、「門」、「斜陽」、「仮面の告白」、「金閣寺」、「鏡子の家」といった、「日本的」の典型と思いがちな20世紀の文学作品の、いかに多くが、ニーチェの概念に溢れたものであるか、ということは一般に知られていないが、実はニーチェの概念の影響が、これらのどの作品にもはっきりと見られるのである。

たとえば、かの有名な夏目漱石の「吾輩は猫である」(1905-1906年)にしても、たいていの人は、軽い諷刺小説だと思っているが、とんでもない。漱石は、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を英語の翻訳版で、その本を書く直前に熟読していて、「吾輩は猫である」は、ニーチェに関する沈思黙考で溢れているのである。

漱石は、英文学に通じていたので、他の誰よりも先に、実際にニーチェを読んでいたに違いない。しかし、だからといって、日本で「ニーチェ」という名前が知られていなかったというわけではなく、それはすでに日本に強い衝撃を与えていたのだ。1901年から1903年にかけて、文学者の間で、「美的生活論争」が起こり、芸術は道徳を超えて美に関することだけに関わっていればいいか、という点について論じられた。この論争の中心にあったのは、ニーチェの革命的な考えだった。

1909年、漱石が「それから」を朝日新聞に連載していた時、生田長江という若い翻訳者が漱石を訪れ、「ツァラトゥストラはかく語りき」を日本語に翻訳するという大業の助けを求めた。長江はドイツ語に自信がなかったので、2冊の英語版から翻訳しようとしていた。長江を助けるために、漱石は「それから」を書きながら、ツァラトゥストラを再読し、ドイツ語版と英語の翻訳とを比べた。


一方で漱石は、彼の作品の中でも最も深くニーチェの影響を受けていると言える「門」(1910年)を創作しようとしていた。実は、この小説の題名は、ニーチェから直接取られたのだ。朝日新聞から、次の小説の題名を決めるように急かされていたので、彼は若い弟子たちに題名を決めるように頼んだ。弟子たちは、「ツァラトゥストラはかく語りき」の本のページをパッと開いて、たまたまそのページで見つけた言葉、「門」を選んだのだった。

漱石はその言葉を聞いたとき、すぐにツァラトゥストラにおける中心的なイメージ、永劫回帰の事を思い起こした。ニーチェの考えは、「冒険」という概念を通して、その門の中に現れる。この小説の主人公、宗助は、妻とごく普通の生活を送っていたが、彼の以前の親友が、(実はその親友の妻を自分の妻に娶ったのだが)満州で「冒険者」になった、と聞いてから、「冒険者」という言葉を聞くだけで恐怖に襲われるようになった。精神的安定を得るために、宗助は禅寺に逃げるが、その経験からは何も得ることができなかった。漱石がここで示唆しているのは、禅そのものがニーチェの言う「冒険」であり、その「冒険」を実行するには、論理を捨て、「危険」で非論理的な考え方を受け入れることが必要とされるのだ。

ニーチェの概念は、大正、昭和期の作家である、芥川龍之介や太宰治の実存主義的な苦悩にもつながるだろう。実際太宰は、彼の小説、「斜陽」(1947年)の中で、今までの価値体系が崩壊した時代の貴族階級のことを描きながら、何度もニーチェの概念をほのめかしている。谷崎潤一郎の作品に見られる虚無的なエロチシズムもニーチェの思想と深い関連性がある。

しかし、なんといっても昭和期におけるニーチェの主唱者の最たるものは、三島由紀夫であろう。三島がニーチェを気に入っていたことは誰にでも明らかで、三島が1970年に、あのように世間を騒がせる自殺をした後で、三島の母親は、あの世でも読めるようにと、三島の仏壇にニーチェの本をいつもおいておいたほどだった。

三島がニーチェを読んでいなかったら、「仮面の告白」の中で見られる人間の心理と性的関心の深淵を探る、ということは、まず不可能だったろうし、三島がその後取ったどの方向をとってみても、ニーチェに何らかの意味で繋がっている。1950年代初めに三島を捕らえた「ギリシャ熱」のせいで、三島は古代ギリシャの遺跡を訪ね(ディオニューソス劇場 写真下)、膨大な量の戯曲を書きまくったが、これも、三島がニーチェの「悲劇の誕生」を読み、その中でニーチェが、人間の本能の「ディオニュソス的」な不条理に対して起きた「アポロン的」な美の観点を、見事に論評していた事と親密に関連している。


三島は、「金閣寺」に見られるように、超越した美を探求し、伝統的な道徳を否定したが、それは三島が、20世紀初頭の、ニーチェに取りつかれた「美的生活」信奉者であったことを連想させる。実際三島は、「神の死」というニーチェの概念を日本の場合にあてはめ、日本も、1946年に昭和天皇がその神格性を否定した時、日本なりの「神の死」を体験したと主張した。そしてそれ以後、「鏡子の家」(1959年)に長々と描写されているような実存的危機に陥るのである。

皮肉なことに、前世紀からニーチェが日本の思想と文学に巨大な影響をもたらしたにもかかわらず、それは、「日本らしさ」にだけ注目している批評家からは通常は無視されている。驚くことに、朝日新聞が「それから」と「門」を再連載するに際し、膨大な量の批評と全くおもしろみのない保守的な分析を載せたにもかかわらず、そこには「ニーチェ」の一文字すら見つけられないのだ。

孔子の教えを超えることができないようである日本の文学界は、これらの優れた作品を、そのままに捉えるのではなく、「エゴイズム」への真摯な探求であると信じたいようである。これらの作品は、深遠な哲学的概念と真正面から取り組んだ、とびきり知的な諷刺小説であるが、それと同時に、さまざまな人間の状況を、思いやりを持って描写したものである、という事実にもかかわらず。

一方、翻訳家生田長江は(写真下:墓石)、20年もの歳月をニーチェの翻訳に費やし、日本の文学界に多大な影響をもたらしたにもかかわらず、今日ではほとんど忘れ去られている。


しかしながら、である。しばらく前に、私は「生田長江鑑賞協会」とでも言えるような、「白つつじの会」というグループからメールをもらった。はっきりいって、そんなグループがあると知って、私も驚いた。その協会の本部は、生田が生まれた鳥取県にある。協会誌を発行していて、私が昨年日本語で、「それから」と長江とニーチェとの関連について書いたブログを載せてもいいか、と頼んできたのである。

私は、まるで地下のゲリラ組織と、共通の目的でがっちりと手を組んだかのように感じた。そして、今こそ、ニーチェの事を現代日本文学の偉大なる歴史の中に書き込む時期であると私は思った。そこにこそニーチェは存在するのである。ニーチェこそが、排他的な概念の「永劫回帰」を防ぐために必要なものだと、私は信じるからである。





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