2016年12月24日土曜日

夏目漱石、アイルランドのイースター蜂起、そして中国の冷戦


今年の4月24日は、1916年にアイルランドで勃発したイースター蜂起の100周年であった。イースター蜂起とは、1000人にも及ぶ愛国者がダブリンを始めとするさまざまな場所で、主要な建物を攻撃して、アイルランド共和国の樹立を宣言した事件である。アイルランド共和主義者は、一週間にわたって抵抗したが、イギリス軍の優位さに押されて、降伏した。この蜂起で、450人以上が死亡し(ほとんどが市民)、何千人もの負傷者が出た。イギリス政府は、第一次世界大戦で中央同盟国との苦闘の真っただ中であったが、この蜂起に対して3500人を逮捕し、蜂起の指導者達16人を処刑するという対応をした。

この蜂起は、今まで、失敗したとはいえ、特にイギリス軍が指導者を処刑したことから、世論を味方に引き付け、アイルランド国家主義を刺激し、過激化することになったと解釈されてきた。イギリスの支配に対する過激な抵抗は、1919年から21年までのアイルランド独立戦争となって再び勃発し、とうとう1922年にアイルランド共和国が創設されたのである。それ以来、イースター蜂起は現代アイルランドの建国神話の一部として語られている。このことは、1916年の独立宣言のコピーが世界中のアイリッシュパブに飾られていることから見ても明らかであろう。

私は、普通なら、アイルランドの歴史にどっぷり浸かるよりも、遠く離れた土地からアイルランドにエールを送りたいと思うところだ。しかしながら、地球の反対側に行ったら、自分の(あるいは自分の祖先の、と言うべきか)故郷に対する新しい洞察を得ることになったという、あまりにも興味深い体験をしたので、今回は日本文学を研究することで、表面的には全くつながりがないように見える1916年のイースター蜂起に関する思いがけない洞察をいかにして得られたか、と言う事について書いてみたいと思う。

アイルランドの最初の指導者、エイモン・デ・ヴァレラ(写真左)は、アイルランドを、農業を営み、質素で、カトリック教会に服する国、として再構築した。この姿が、イギリスの抑圧を払いのけた後のアイルランドの本来の姿であるはずだった。しかしながら、もし、他の自由を愛するビジョンが前に出ていたなら、1920年代のアイルランドにはもっと様々な可能性があったはずだった。多くの人が、アイルランドが、外部から取り残された田舎ではなく、現代的なユートピア、進歩的な理想を世界にしらしめす所であってほしいと望んだ。実際、この「別のアイルランド」は、1916年の蜂起から100年経った今になってようやく、実現され始めている。次々と起きたカトリック教会の神父による性的虐待スキャンダルのせいで、カトリック教会の権力は地に落ち、新しい自由が芽生える土壌が生まれた。同性愛者同士の結婚を許すべく、改憲することに賛成した住民投票がひとつの転機であり、デ・ヴァレラもさぞかし墓の中で驚いたことだろう。

従来の民族主義からの解離と同時に、1916年の蜂起そのものも真価を問われている。2年前、前首相のジョン・ブルートンは、敢えて、皆が言いたくても言えないこと、つまり、1916年の蜂起は実際に必要だったのか、と演説の中で問うたのである。アイルランド自治法は、すでにイギリス国会で承認されており、今や施行されんとする時に第一次世界大戦が勃発したために、戦争が終わるまで延期されてしまった。かといって、本当に、450人の命と、何千人もの負傷者を出す価値があったのだろうか? ましてや、その後何年にもわたってお互いを殺しあう内戦に陥ってしまう結果となったのだ。もう少し待っていれば、自治政府が平和的に実現されたかもしれなかったというのに。

ブルートン氏(写真右)は、1916年の指導者たちの「真摯さ」は決して疑わないと注意深く付け加えたが、歴史学者の中には、後には「殉教者」として認められることになる、あの指導者たちの目的について、明らかに批判的な者もいる。私は、1916年の蜂起の背景についてや、アイルランド民族主義者の目が回るような複雑な関係をそれほど知っているわけではないので、なにもコメントはできないが、それでも、この議論には、確かに重要な側面があると思う。実際、それは第一次世界大戦全体の理解にも関わるのであるが、全く無視されている。ここで、私は日本文学という思いがけない分野に目を向けると、非常に得るところが大きいと提案したいのである。

1916年の初め、日本の偉大なる小説家、夏目漱石は、「点頭録」という連載を朝日新聞に載せていた。日本は連合国の一員として参戦し、ドイツの極東における植民地を攻略したとはいえ、第一次世界大戦ではそれほど大きな役割を担ったわけではなかった。しかしながら、漱石が、有名な作家であり、朝日新聞の専属作家であったにもかかわらず、戦争に関してほとんど何も語っていないのは驚きである。漱石にとっては、ただいつも通りで、1916年の12月に予期せぬ死を遂げるまで小説の連載を続けていた。

「点頭録」の中で、漱石はまた「大戦」が勃発した(日本は、1904年から5年まで、日露戦争を戦ったところだったので)と言い、どちらかと言えば別に重要でもないような事、つまり、イギリスが徴兵制を始めるらしい、と言う事について述べている。漱石は、ドイツがこの戦いにおいて思いがけず手ごわかったようだ、と言い、それに対抗するために、イギリスは独自の伝統である有志による軍をあきらめ、ドイツ風の徴兵制を適用せざるを得なくなった、と言った。そして、この点において、ドイツは戦争に勝っていると言える、と言った。

普通に解釈すれば、漱石は(写真下)単に第一次世界大戦がいかに重大であったかと言う事を理解していなかった、ということになろう。そして、日本は実際の戦争の舞台からは遠く離れ、その役割も小さかったし、ましてや漱石は戦争の半ばで死んでしまったのだから、それも無理なかろう、と。


しかしながら、その解釈は間違っている、と私は言いたい。実は、漱石の観察眼は驚くべき程鋭かったのである。世界中で、第一次世界大戦の記念式典が開かれているというのに、この「徴兵制」という肝心の問題については、どこでも触れられたことがないのは、全く不思議なほどである。この問題は、イギリス帝国の歴史においての重大な分岐点を理解するうえで、必要不可欠であるにもかかわらず。

今日ではすっかり忘れ去られているが、1916年までは、イギリスは第一次世界大戦の対戦国の中で唯一、徴兵制に頼っていない国だったのである。実際、その歴史の中で、海軍力を誇る大英帝国は、徴兵制に頼る必要がなかった。王と国の名の元に、喜んで命を投げ打つ有志達に頼れることを誇りとして来たのである。実際はどうであったにしろ、大英帝国は、文明と高尚な理想とによって鼓舞された、貴族階級の紳士のクラブと見なされていて、そこでは、「原住民」は面倒を見てもらっているのであって、強制され、利用されているのではない、ということになっていた。この旗の元の自由と「共通善」という概念を共有する帝国のメンバーがいてこそ成り立っていたのだ。

徴兵制は、それをすべて永遠に変えてしまった。オーストラリアの首相、アンドリュー・フィッシャーは、1914年9月に、戦争でイギリスの味方をするかと聞かれた時、「最後の一人、最後のシリングに至るまでイギリスを守り抜く」と宣言したが、それは、オーストラリア人が帝国のために自分から命を捧げるつもりがあることを前提にしたものだった(募集用のポスター、下)。しかしながら実際は、1916年にオーストラリア政府がイギリスの圧力から徴兵制を導入しようとしたとき、国民投票によって小差ながらも拒否された(そして1917年に再び、今度はもっと大差で拒否された)。オーストラリア人は、今日も、その建国の基盤の一部としてガリポリにおける戦闘を忘れていないが、イギリスが徴兵制を無理強いしようとしたことは、それと同じぐらいに重要な事であると言えよう。「母国」のために死ぬ覚悟はできているか、と考えること以上に、自分と「母国」との関係を深く考えさせることはないだろうからだ。


同じことはカナダについても言えよう。カナダでは、1917年に徴兵制を導入しようとした時、暴動と反対運動がフランス語圏のケベックで起きたのであった。

アイルランドでは、徴兵制の問題は決定的だった。戦争が終わるまでアイルランド自治法の施行を延期すると言われたところまではまだいいが、イギリス政府は、アイルランドが徴兵制を受け入れれば、それを施行すると言い出したのだ。もちろん、イギリス政府にしてみれば、ドイツの徴兵された500万の軍に相対するために、たった10万の軍しか送れなかったのだから、大規模な徴兵が必要不可欠なことはあまりにも明らかだった。アイルランド人は、そして、カナダ、オーストラリア、そして大英帝国のあらゆる所で、多くの人々が進んで戦争で戦うことを買って出た。(もし進んで、でなければ「冒険」あるいは「仲間意識」という考えにつられて。)しかしアイルランド民族主義者にとっては、アイルランド自治法が施行されるまでは戦争を部外者として眺めているつもりだったのに、1916年に徴兵制がいよいよ導入されそうになってくるのを見て、「蜂起」せざるを得ないと思うに至ったに違いない。

私は、イギリス政府が蜂起の指導者たちを処刑したことがアイルランド民族主義を過激化したのではなく、実際は、1916年に徴兵制を導入しようとし、その上1918年にはルーデンドルフー(ドイツの指揮官)の春季攻撃で敗れた後、一層深刻に人手不足となり、再び徴兵しようとしたことのほうが、アイルランド人を独立の要求に駆り立てたのだと主張したい。

漱石の、1916年に何が起こっているのかについての洞察は、あまり意味のない事を語っているどころか、大英帝国の衰退そのものを鋭く予言していたのである。それ以後は、大英帝国は、土地を奪うために強制的に、ではなく、自由を守るべく有志によって成り立っているという神話の元には二度と軍事行動をとれなくなった。実際、オスマン帝国が敗れた後で、イギリスとフランスの間で秘密裏に中東を分け合ったサイクス・ピコ協定が結ばれたのが1916年であったというのも重要である。イギリスは、1914年にドイツのベルギーでの残虐な行為に憤激して、文明と自由をドイツの侵攻から守るべく参戦したのに、すでに1916年には、ドイツ流の戦争のやり方を倣って、帝国の拡大のために乗り出したのだった。そしてその過程で、帝国の主張した理想は、もはや致命的に葬り去られてしまった。

私はこの漱石の洞察が、今の日本の状況を分析するのに役立つと思う。第一次世界大戦のような実際の戦争ではないにしても、日本は今中国との間で、お互いがお互いに疑惑と敵意を抱く「冷戦」に直面している。日本では、中国から自らを守るために、軍隊を持つことを禁止した平和憲法を改革すべきかどうかという議論が何年も続いている。

中国がいよいよ強引になって行く一方で、日本を守るべきアメリカの権威が落ちているように見える今日では、この憂慮はほおっておけない。平和憲法は、そもそもアメリカが無理やり押し付けたものだ、という人々も多い。

しかしながら、漱石の洞察によれば、日本が自身の憲法までをも中国の脅威によって変えなければならないということは、とても「自然な」展開であるとはいえない。そしてその意味においては、漱石風に言うなら、中国はすでに「勝っている」と言えるのではないか。第一次世界大戦で大英帝国がドイツと戦った時に経験したように、そのような変化は、本来の目的を果たすことができるかもしれないが、全く予期していなかった、自滅的な結果をも長期的にもたらすことになりかねない。

私は、1916年のイースター蜂起の100周年にあたって、もう一度そもそもの原因に目を向けるべきだろうと思う。狭義の国家主義的な見方に捉われるのではなく、世界中で起きている事との関連を探り、それが今日起きている政治問題についてどのような洞察を与えるかと言う事について考えてみるべきだろうと思う。