2016年10月2日日曜日

私の「日本文学とスター・ウォーズ」論


初代「スター・ウォーズ」が、日本文化の影響を受けていると言う事は、周知の事実で、今更特に繰り返す必要もないだろう。ジョージ・ルーカスが、1958年の黒澤明の映画・「隠し砦の三悪人」から、貧しい農民が、喧嘩をしながら、お姫様を連れて敵の陣地を通り抜ける、という話の筋を取った、ということはもうすでに自明である。ルーカスはそれを、ずっと昔の、遠い銀河で起こったサイエンスフィクションに仕立て上げ、あの農民たちはC3POとR2D2に、刀はライトセーバーに、そして武士道は、フォースに組み入れられた、というわけだ。

映画と同じほどに興味深いのは、あの映画が、どれほどの様々なことから影響を受け、予期せぬ出来事の仕業もあって形作られてきたことか、ということである。ジョージ・ルーカスは、最初は、ジョーセフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」のような、神話に題材を取った作品に影響を受けた、「フラッシュ・ゴードン」的サイエンスフィクション映画を作ろうとした。筋書きは、何度も何度も書き換えられ、一時は、ルークは父親と、たくさんの兄弟がいることになっていた。それにタイトルは、「ウィルズ記録による、ルーク・スターキラーの冒険」と、なんとも長くなったこともあった。

しかしながら、なんといっても初代「スター・ウォーズ」で一番興味深いのは、オビ・ワン・ケノビが、宿敵(そして自分の元の弟子)ダース・ベイダーと、ライトセーバーで生半可な決闘をした後、負けるに任せてしまった、ということである。この、「任せる」と言う言葉が鍵である。普通の解釈では、オビ・ワンは、ルークと、レイア姫と、ハン・ソロが、ミレニウム・ファルコンに乗って母船から脱出できるように、自分を犠牲にした、と言う事になっている。

でも私は敢えて、そんな解釈は正しくない、と言おう。オビ・ワンの最後の行動は、もっとはるかに計算づくで、意味深いと思う。いったい誰が、オビ・ワンがわざとルークを見てかすかに微笑み、そして自分から死を選んだと言う事に気が付かないことがあろうか。オビ・ワンは、忘却に甘んじるような人物ではなく、ここで死ぬことによってこそ、今までよりさらに強く、若い弟子のルークの心の中に生き続けることができるということを、知っていたのにちがいない。

オビ・ワンが、スター・ウォーズエピソード4「新たな希望」の半ばで死んでしまうという筋書きは、土壇場での書き直しのようだ。もともとは、オビ・ワンは、映画のおしまいまで生き延びるのみならず、2つの続編の中でも主要な登場人物であることになっていた。ただ、ルーカスが土壇場に筋書きの変更をしたのか、あるいはオビ・ワンを演じたアレック・ギネス自身がもう続編に出たくないので筋書きを変えてもらうように提案したのかは、意見の分かれるところである。(後者のほうが、もっともらしいと思うが。)ギネスはこの映画のおかげで、膨大な富を築くことになるのであるが。

この筋書きの変更がどうもたらされたにしろ、土壇場で変更された筋書きと言うのは、映画全体としての意味にとって、きわめて重要になることはままある。

「スター・ウォーズ4」の前半で、オビ・ワンは器用に人の心を操ってみせる。オビ・ワンとルークが、帝国軍に止められたとき、オビ・ワンはいとも簡単にクローン兵隊を操り、まんまと逃げおおせる。ストーム・トルーパーは簡単に操れるが、オビ・ワンが騒がしいバーで、ルークにケンカを売って来た無法者を同じように操ろうとした時は効き目がなく、オビ・ワンはライトセーバーを使わなければならなかった。

オビ・ワンは敵をやっつけるためには、ある時は心理作戦でいけるが、ある時は腕力が必要だと言う事をよく心得ている。しかし、ある者の心を一生の間支配するには、自分自身の命をかけるだけの覚悟がなければならない。あの命を懸けた、かすかな微笑の裏には、さまざまな思いと計算があったに違いない。

この事を思うと、私はいつも、ある有名な日本の近代小説のことを思わざるを得ない。
それは、夏目漱石の「心」である。1914年に書かれた、圧倒的な人気を誇る小説で、朝日新聞で、最近、100周年を記念して全編が連載された。英語には、1956年にエドウィン・マクレランによって翻訳され、2010年には「ペンギン・クラッシック」シリーズにメレディス・マキニーの新しい翻訳が出た。

この小説は、「先生」と呼ばれる少し年上の人物によって翻弄される若い語り手の話である(1955年の市川崑の映画より、語り手が左、先生は右)。「先生」と呼ばれる登場人物は、過去に暗い秘密を持っていることが、後半に描かれるその語り手への長い手紙の中で明らかにされていく。「先生」は、彼の親友Kと自分が学生だった時の三角関係の結果、Kが自殺したことに責めさいなまれていることがわかってくる。Kは自殺することによって、先生の心を墓の下から支配しているわけである。


先生は、自殺によって、残された者の心を支配することができるとわかっているので、同じ影響を行使すべく注意深く機会を待つ。実際、彼は語り手が危篤の父親を介護するために実家へ帰るまで待ってから、自分の秘密と、自殺の意思を告げる。そして語り手が、父親の元を離れ、先生の家まで飛んで行くところで、この小説は終わるのである。先生は、注意深く計画された自殺によって、父と息子の絆よりも深いつながりを、作りあげてみせるのである。

はたしてジョージ・ルーカスが「心」を読んだことがあるか、あるいは市川崑の映画を見たことがあるか、は全くわからないが、ルーカスが支持し、尊敬した黒澤は、他の日本人もそうであるように、漱石の大ファンであった。たとえば、黒澤の1990年の映画、「夢」は、1908年に書かれた漱石の「夢十夜」へのオマージュであった。

この先生の自殺の、攻撃的な性質は、日本の漱石ファンには見落とされがちである。これは、「スター・ウォーズ」の中での、オビ・ワンの、自身を不滅にするための自殺が、高貴な犠牲のためのものと誤解されているのと同じであろう。

もうすでに有名な話だが、アレック・ギネスは、ファンが「スター・ウォーズ」をもう100回以上見たと言った時に、もう二度と見なければサインをあげると言ったそうだ。シェークスピア劇を得意とする、古典的に訓練されたギネスは、「スター・ウォーズ」がシェイクスピアの演劇のように何回も見るに価するとは思わなかったのだろう。しかし皮肉にも、ギネスが演じたオビ・ワンは、墓の下からルークの心を支配し続けた。しかしながら、「心」における先生の場合と同じように、オビ・ワンの最後の行動の本質は、奇妙なことに理解されず、見る者はいつまでも、それは衝動的な自己犠牲であって、抜け目なく計算された、心理的な操作であったとは信じようとしないのである。

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