2010年10月24日日曜日

小阪美鈴氏の「草枕」

「The Three Cornered World」は、アラン・ターニー氏が1965年に英訳した、夏目漱石の『草枕』(明治39年)の英語の題名です。ロンドンのピーター・オーェン社が2005年に、夏目漱石の小説の英訳を再出版して以来、小阪美鈴氏の題字が載せられた第四目の本ともなります。その少し妙な題名は『草枕』第三章の以下の文章に由来しています。

して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。

『草枕』は漱石の最も「芸術的な」小説であるので、今度はどういう書作品を書いてくださるか、ロンドンでずいぶん期待していました。そして、小阪美鈴氏の限界を知らない、斬新な想像力が私たちの期待を裏切りませんでした。

『草枕』の愛読者はご存知だろうが、この小説のテーマは、画家が田舎の温泉へ旅して、しばらくの間、「非人情」という態度で世界を見てみようという話です。旅館の御那美というお嬢さんに魅惑されて、ミレーの『オフィーリア』のようなポーズで描いてみたいと考えながら、どうしてもその絵画にぴったり会う、彼女の顔の表現は思い浮かびません。

『倫敦塔』、『門』、『こころ』の英訳の新版に、小阪美鈴氏がすぐれた「書」を書いてくださったが、それぞれの本に、表紙が「標準的な」書で、中扉はもっと独創的な、伝統に束縛されていない書にする、というパーターンでした。「The Three Cornered World」の表紙にも、「標準的な」書が載せられるが、ずいぶん象徴的な意味も含まれているに違いありません。


「草」の下部分は、「枕」の真中に向かって、まっしぐらに落ちていますが、小川を流れている、おぼれ死ぬオフィーリアという、『草枕』の中心的なイメージが暗に再現されているでしょう。「情に掉させば流される」という冒頭の有名な文章を連想させるよう、「草」の「早」はまるで手を広げて、足をそろえた人間が落下する流れに巻き込まれたようです。「草」の冠はその激しい早さに置き去りにされてしまうほどです。(そして、皮肉なことに、冠なしの「草」は「早」そのものです。)

その止められない、墜落する体が向かっているのは、下の「枕」です。「枕」は、言葉通り、やわらかい「枕」なので、やや安心です。そして、「枕」の上から下まで両側を開けて、受け取りやすい「V」という形で構えているので、落ちるオフィーリアをすばやくキャッチするではないでしょうか。しかし、あいにく、落ちる人体が下の「枕」の両側を完全に押し分けて、落下し続ける恐れも認めざるを得ません。「非人情」という「枕」は、「情の流れ」を止めるのに、不十分であるかもしれません。

表紙の「標準的な」書に、これほど深長な意味があれば、中扉の「芸術的な」書に、解説がますます複雑になります。これは紛れもない傑作だと思います。どうやって創造者がこの作品を作ったかと考えると、まるで、象徴を含んだ日本の書道が、伝統の限界を超えて、カンディンスキー、ミロ、ピカソなどの巨匠の芸術と融合して、なにか真新しい、深遠なものを生み出したと気がつきます。

今度は、同じ二つの字が繰り返して、繰り返して、永遠に変形したり、順応したり、進化したりする、意識の流れの断面図が展示されています。字を特定の書き方で習字を教える、書道の四角四面の伝統とはこれほどかけ離れたものはないでしょう。それどころか、小阪美鈴氏はその保守的な拘束の嘘を暴いています。それぞれの字は、宇宙のあるゆるものと同じように、一刹那ごとに変わる、観察者のユニークな視点によって再評価されて、再見されています。ここで、小阪美鈴氏は、『草枕』における漱石の見方だけではなくて、『文学論』の根本的な概念を把握したと思われます。すなわち、世界のあるゆる主題も、その主題がどうやって私たちを影響することも、永久的に進化しています。さらに、芸術家は、(そしてすべての人間の中にある芸術家は)世界の主題を再調整したり、再想像したりして、記憶と、夢と、気分と融合させて、ようやく観察された物体についても、観察する人についても何か隠された真実を明かすものを生み出します。生み出す途端に、その作品が共同的な意識の流れにもう一度投げ込まれて、無数の新しい形で再生されています。


今度は、感情の意識の流れに運ばれているのは、一人のオフィーリアではなくて、多数のオフィーリアです。同じように、新しい読者と、再読と、新しい見解を求めて、新しいインスピレーションを与える、多数の『草枕』もあります。

そして、その上右の角の空白はなんでしょうか?これは言うまでもなく我々の出発点でしょう。小阪美鈴氏は、みんなの人間の出発点はそれぞれに違うので、定義できない空白と等しい、と主張しているでしょうか?それとも、我々はみんな一つの共通なところがある、と主張していますか?即ち、芸術や美術に専念すれば、我々もいつも常識と名のつく、一角を亡くした「三角の世界」にも住まなければならないと。

2010年4月26日月曜日

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2007年10月17日水曜日

アラブ文学を日本語で探検する



日本の皆様、大変お待たせしました。ずっと前からブログを日本語で書こうと思ったものの、なかなか時間がとれなくて、英語のほうでも月に一回しか投稿していない状態が続きました。自分の生まれつきの惰性を深く反省しています。これから、日本語での投稿にも少しパワーアップしたいと思います。

来月、日本語の新著・『世界文学のスーパースター夏目漱石』が講談社インターナショナルに出版される予定なので、最近、その本の校正などで忙しい日々を送っていました。最初の日本語の本(『日本人が知らない夏目漱石』)は自分で日本語で書いたが、今度の本は英語の原稿を翻訳してもらったものです。原稿の内容については何もいえませんが、翻訳のほうはうまいと思っています。先日、原稿を日本人のお友達に読んでもらって、その感想を聞きました。「面白い!読みやすい!君が普通に書く堅苦しい文章とまるっきり違いますね。翻訳してもらってよかったね」とか。褒められているか、非難されているか、あまりよくわからないぐらいです。

先週の日曜日、久しぶりに神戸市立博物館を訪れて、「インカ・マヤ・アステカ展」を見ました。私は中米へ行ったことがないので、この三つの偉大文明についてあまり詳しくないです。スペインの中南米征服を語る歴史本を読んだり、テレビ番組を見たりしたので、アステカの神殿で生贄の儀式などが行われたことぐらいは知っていたが、インカ・マヤの宗教でもその伝統があったとは知りませんでした。「生贄」に関する展示品は血も凍るほど恐ろしい。。。でも興味深い。その展示を見て、中南米の古典文化についてもっと調べたいと思いました。ああ、来年は、中米への旅行を計画しなきゃ。。。

日本にいる間に、「日本はどうですか、好きですか?」などというややありふれた問いが頻繁にかけられているが、実は、日本にいると、ぜんぜん「外国」にいると思っていません。イギリス人でありながら、日本を第二の故郷と勝手に思っているし、日本の習慣などにすっかり馴染んでいるので。逆に、日本にいると、「日本文化」を考えるより、日本語を通して、あまり知らない文化を探検することが面白いです。

たとえば、私はアラブ文学に大変な興味を持っています。十数年前から、アラブ文学に関する知識がゼロに近いということが気になっていたが、どういう本を読んだらいいかまったくわかりませんでした。第一に、有名なアラブ文学者の名前は一つも知りませんでした。そのために、アラビア語圏についていろいろな本を読んでいたが、そのほとんどが欧米人に書かれたものでした。

 そして、たまたま、去年の『ロンドンタイムズ』に、ナギーブ・マフフーズというエジプトの国民的な作家の死亡記事を読みました。記事によると、マフフーズはノーベル文学賞を受賞したアラビア語圏の唯一の作家でした。しかし、その記事はマフフーズに対して少しあいまいな態度をとりました。マフフーズの文学をある程度まで評価していたものの、「欧米文学」とは比べ物にならないと言い張りました。然し、私はその評価を怪しい目で読みました。是非、自分自身でマフフーズの小説を調べたいと思いました。

まず、いくつかの小説を英語で読みました。『我が町内の子供たち』、『ナイルでのおしゃべり』、『イクナートン』、『テーベの闘い』。正月に、エジプトにも小旅行しました。そして、日本に戻って、梅田の紀伊国屋で東京外国語大学教授・八木久美子氏の『マフフーズ・文学・イスラム』という本を見つけました。この本がマフフーズの文学を最初から最後まで系統的に紹介しているし、二十世紀のエジプトの政情・歴史などを説明しています。アラブ文学の入門書として不可欠な一冊であると思います。コプトというエジプトのキリスト教徒の存在がどういうふうにエジプトの「国家主義」と関連しているという話は特に面白い。スーフィズムの話も。参考文献を見ると、八木氏は日本語やアラビア語の本はもちろんのことで、英語やフランス語の本も読んでいるのでその博識に頭を下げます。

マフフーズの文学のなかでどの作品が一番面白いでしょうか?私は『カイロ三部』をまだ読んでいないですが、まったく素人の意見を申し上げると、マフフーズの天才的な作品があれば、ちっとも面白くない作品もあるとおもいます。たとえば、初期に書かれた「歴史小説」(『テーベの闘い』など)は読まなくてもいいと思います。晩年の『イクナートン』も特に面白いとはいえません。しかし、間違いなく、『我が町内の子供たち』が二十世紀世界文学の傑作であると確信しています。邦訳はまだ存在していないので、八木氏のような優秀な学者が翻訳すればいいと思います。

では、日本の皆さん、今日はここまでです。次回の投稿を楽しみにしてください。