2016年1月3日日曜日

正午に死にたかった三島由紀夫

去年の11月25日に、三島事件は45年記念を迎えた。その機会に、細江英公氏の傑作写真集「薔薇刑」(1963年)が再出版された。ページをめくり、一つの写真に出会うと、ぞっとする。三島が、ちょうど正午を示しているでかい時計を抱えているポーズだ。

三島は一生に亘って時計、腕時計、そして時間そのものに執着していた。友人の回顧録を読むと、約束を厳守することに、三島がどれほどうるさかったかという話が、頻繁に出てくる。遅れることが大嫌い。おびただしい原稿を出しているが、出版社の締切に間に合わなかったことは、一度もない。

そして相手にも遅れることを絶対許さない。作曲家・黛敏郎さんと一緒にオペラと作ろうとしたが、しめきりが近づき、黛が「もう少時間を下さい」と頼むと、三島は激怒し絶交してしまった。一方、一番尊敬する人に対しては時計をプレゼントした。

三島事件は細かいスケジュールの上に立てられた計画だった。午前11時に、三島と縦の会の四人の仲間が自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室に入り、挨拶を交わして間もなく、突然総監を拘束した。駐屯地の全自衛官を11.30時前に集合させないと、総監を殺すと脅した。三島がバルコニーに出て、全隊員に向かって30分の演説をし、その後12時に自決するという計画だった。

しかし計画のスケジュールが狂った。二回に亘って、木刀を持った自衛隊の将校たちが総監室に突入し、三島と縦の会の四人と戦ったのだ。しかし、関孫六の刀をふるっていた三島に対抗できず、後退させられた。

このため自衛官達が集合したのは、11.30時前ではなくて、12時前だった。三島はバルコニーに出た時に、「遅れた」と憤慨していただけではなくて、「これは僕が既に死ぬべき時間だ」と思っていたに違いない。



バルコニーでの演説で三島は、「待った、待った、もう待たない」という気持ちを強調する。なにを「待った」かというと、ベトナム戦争に反対していた学生たちのデモで、警察が学生の人数に圧倒されて、内乱を収めるため自衛隊が動き出す日を「待っていた」という意味だ。自衛隊が動員されれば、日本は軍隊を必要とすることを国民に認めさせられる、そうなれば、憲法を変える日が来るという三島の考えだ。

しかし、自衛官達には、「待つことが大嫌いな三島」の人格がわからない限り、どうして「待たされた」という不満が三島を奇矯な激動に駆り立てたのかはわからない。マスコミのヘリコプターの騒音や、自衛官達の野次のために、30分のはずの演説は僅か7分で終わってしまった。三島が皇居の方向に跪いて、「天皇陛下万歳」と三回叫んで総監室に戻り、切腹の準備を始めた。最後の仕草は高級腕時計を外して、縦の会の仲間に渡すことだった。自決したのは午後12時15分ごろ。

ちょうど正午に死にたかった、時間に厳格であった三島。細江英公氏の1961年の写真をみると、その最後の15分がどれほど三島にとって悔しかったかということは、しみじみと胸に答える。

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