2017年4月1日土曜日

第二次世界大戦と武士道


1957年に上映された映画、「戦場にかける橋」で、横柄なイギリス人の大佐が、捕虜収容所で日本人の所長に食って掛かるシーンがある。彼は、ジュネーブ条約によると、将校には労役を無理強いさせることはできない、と主張する。これを聞いて日本人の大佐は激怒する。私は西洋の法には従わない。私が従うのは武士道にだけだ、と。

新渡戸稲造の「武士道:日本の魂」が出版されて、武士道と言う概念が最初に世界に知られるようになった1900年には、それは騎士道のように称賛すべき慣例として捉えられた。武士道の人間の義務に対する献身的な態度は、世界中の人々を鼓舞し、その中には、ボーイスカウト運動を始めたロバート・ベーデン=パウエルも含まれていた。しかし、1940年代までには、「武士道」は日本人の自殺に走りやすい傾向と、軍隊の残虐さを表す代名詞になっていったのである。

今日では、その内包するところのものは、変わったところもあるが、そのままのところもある。武士道は、過ぎ去りし日々の誇りある侍を思い起こさせるが、それはまた、日本人は西洋とは違う独自の道徳を持っていると言う事を例示し続けているとも言える。それだからこそ、国家主義のグループが、1945年から52年にかけてのアメリカ占領時代に発行された、現在の憲法の改正を要求しているのだといえよう。

正道を踏み外した武士道の理論は、1930年から45年にかけて日本の知識人の中で横行し、ついには神風特攻隊のパイロット達が、侍風の辞世の句と共にコックピットの中に刀を持ち込むまでに至った。しかし、この事態は避けられないわけではなかったのだ。歴史家のオレグ・ベネシュ氏が「Inventing the Way of the Samurai」の中で書いたように、この理論は明治時代には流行ったが、1912年に明治天皇が崩御した後では、武士道の人気は学術的分野においてはすたれていった。明治天皇の後、1912年から26年まで在位した大正天皇は、身体的にも精神的にも病弱だったので、明治天皇に対してのような熱狂的な崇拝を国民から享受できなかった。そのせいで、武士道における天皇崇拝の理論は後退した。さらに、第一次世界大戦が勃発し、ヨーロッパの国々からの脅威は薄れ、日本の経済は好況を呈した。

しかしながら、この、日本と西洋とでは価値体系が違うという解釈は、いつも正しいというわけではない。「戦場にかける橋」の中には数々の辛辣なる皮肉が含まれているが、その一つは、イギリス人の大佐(写真、左)は人権を保護するジュネーブ条約などは実際はどうでもよく、ただ階級制度があるがために享受できる特権を正当化したかっただけだったということだ。一方で、捕虜収容所の日本人指揮官は、武士道を崇敬している。そしてその武士道は、武士階級に与えられた特権を守るためにもともと作られたものなのだ。つまり、イギリス人の大佐も、日本人指揮官も、どちらも時代錯誤の特権の概念にしがみついているだけなのだった。

1917年に起きたロシア革命で、急進的な社会主義の時代が始まってからは、武士道の魅力は一層薄れることになる。そして1917年から22年にかけての、ロシアの内戦を干渉したシベリア出兵の痛い撤退で、日本国内では軍隊に対する国民の反対が募ることになる。日本が1920年代に近代化したことによって、侍の慣習はもはや前時代のものとなったようであった。

では、一体何が1930年代になって武士道をまた呼び起こしたのか。その一つは、ベネシュ氏が主張するように、明治時代の終わりに井上哲次郎(写真、右)のような国家主義者によって普及した、武士道の中の帝国主義的な部分が、1910年から学校の教科書に組み込まれたことだった。これは、その世代の人たちの心の中に、このような武士道の解釈を産み付けるのに非常に効果的だったと言わざるを得ない。そして日本は、このような解釈を持って、来るべき政治的な問題を解決しようとすることになる。

30年代に入ると、日本には将来に対する不透明感が漂い始めた。それは、大不況と、長々と続き、とどまるところを知らない中国での戦争の始まりとも言える1931年の満州事変のあたりからだった。この不透明感と共に、国家主義的な気運が強まった。それは、1924年に、アメリカがすべてのアジア人の移民を禁じた移民法を施行したこと、侮蔑的だとみなされたワシントン海軍軍縮条約に対する不満、そして1932年の日本の満州での陰謀を糾弾したリットン報告書などによって煽られたと言えよう。政府の思想家や知識階級は、武士道にその解決を見出そうとした。

井上哲次郎の後を継いで、軍隊論者や歴史家は、20年代後半から30年代にかけて、平泉清の「武士道の復活」、広瀬豊の「軍人の道徳論」などのような、武士道に関する道徳的な作品を出版した。ヨーロッパで起きたファシズムの影響を受けて、多くの知識階級は、国家のアイデンティティを育み統一するのに、武士道が使えると思った。30年代初頭の日本の陸軍大将、荒木貞夫は、帝国主義的な武士道の解釈が軍隊の演習の本質的な部分になるように努めた。

しかしながら、この時代の武士道の発展において最も驚くべきことであったのは、「葉隠」という作品が流行ったことであると言えよう。「葉隠」とは、それ以前はあまりよく知られていない18世紀における侍の処世訓と逸話を集めたものである。この時代の前に学者が武士の掟について書いた時には、急進的な学者である吉田松陰や、儒学者の山鹿素行の書いたものについて集中していた。

「葉隠」は、鍋山藩藩士山本常朝が、藩の藩士のために侍の「心得」を口述したものを書き留めた書物である。「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一節から始まり、侍は主君のためにいつでも死ぬ覚悟ができていなければならないと説く「葉隠」は、帝国陸軍と海軍の一種の「バイブル」となった。30年代以前は、「葉隠」は一度も出版されたことがなかったが、戦前に、武士道の国家主義的な解釈がされるとともにそれも変わって行った。

1938年には、松波治郎が「葉隠」を称賛する注釈書を出版し、1940年には、あの著名な哲学者、和辻哲郎が、兵士が戦争に行くときに持っていけるように簡約化したものを出版した。

一体、武士道や「葉隠」についての本が、第二次世界大戦における兵士にどのような影響をもたらしたのであろうか。戦前の学者達は、敵に降伏することは、侍の掟においては許されざることであると説いた。しかし、実際の戦争中では、兵士が降伏することを拒んだのは、武士道を信じたからなのか、それともアメリカ軍に殺されることを恐れたからなのか、それとも、白旗を振ったがために自分の軍から殺されることを恐れたためなのか、はっきりと知るすべはない。帝国主義的武士道は、連合国の捕虜に対する残虐な仕打ちを正当化するのにも役立った。

しかし、この武士道の考え方は、別の、そしてもっと深刻な役割をも担ったのである。それは、最後の一人まで戦い続けるという日本の決意をも促したということであった。武士道は、日本における戦時中の多くの破滅的な体験に結びついているが、この結びつきは、戦争の何十年も前、1910年に日本の教科書が改訂されて、子供たちが武士の掟の国家主義的な解釈に洗脳され始めた時に遡るのである。

1946年に、天皇が人間宣言を行った事で、帝国主義的な武士道は本当に姿を消したかのように見えた。もっと大人しくて、平和を愛する日本が出現し、歴史的にもっと正確な侍の掟の解釈が出版されるようになった。

しかしながら、現在の日本の状況から見ると、現実はそう簡単ではないようである。最近の歴史の教科書の改訂は、あの1910年の改訂を思い起こさせる。

日本の戦前の教育制度は、帝国主義的な武士道の教育にあまりにも溢れていたので、日本人の魂からそれを取り除くのは、そう簡単ではないらしい。20世紀の後半には、それが予期されていなかったところで、また現れることになる。(続く)

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