2017年4月15日土曜日

夏目漱石、「スターウォーズ」、そして武士道


1912年9月、日露戦争での英雄、乃木希典大将(写真、上)が割腹自殺を図った。それは、明治天皇の葬儀の日に行われた殉死であり、近代における武士道の頂点を極める行為であった。

乃木大将の殉死は、英雄的であったのか、それとも甚だしい時代錯誤であったのか。江戸期の儒学者であり、19世紀の武士道理論にとって欠かせない思想家であった山鹿素行なら、認めなかったことだろう。彼は殉死を侍同士の性的関係の表れだと批判したのだから。

乃木大将の死の2年後、夏目漱石は、その代表的な小説、「こころ」の中で、乃木大将の殉死を、話の展開において決定的な場面で取り上げた。「先生」と呼ばれる中年の人物は、彼の親友が自殺したことでさいなまれていた。彼は若くて感受性の強い主人公に、長々と告白する中で自分の思いを明らかにする。そして、乃木大将の殉死のニュースを聞いて、先生は自分も自殺することにした、とおおげさに宣言するのだ。

漱石は、その諷刺調で皮肉っぽい伝統にどっぷりと浸かった、英文学の専門家である。「こころ」では、人間がいかに自分の真の動機を、大義名分のもとに隠しおおせるか、を描いている。先生という人物は、この若い主人公の心を、自殺することによって永遠に捉えようとする。しかし、彼は「明治の魂」と殉死すると言う事で、自分のその行動を武士道の高尚さで美化しようとするのだ。

「こころ」が出版されて以来、2008年にベストセラー「悩む力」を著した姜尚中氏を含め多くの批評家は、漱石が「こころ」の中で真摯であって、皮肉を言っているのではないとしてきた。それで、帝国主義的な武士道が第二次世界大戦後に教科書から消えてなくなった時、漱石の「こころ」は、その手に入りやすい代替物となった。1990年の半ばまでには、毎年20本ぐらいは新しいものが出版されるという勢いで、何百という論文が「こころ」について書かれた。しかしその諷刺を見破ったものはほとんど無きに等しかったと言えよう。

1957年に、「こころ」の英語版が出版されたが、同性愛的部分はすべて、その堅物の翻訳者、エドウィン・マクレランによって取り除かれていた。1956年には、三島由紀夫の最初の翻訳本が出版されたが、出版社は三島を「同性愛者の小説」の著者として英語圏に売り出したくはなかったので、「仮面の告白」ではなく、あえて「潮騒」を選んだ。三島は、この毒気のない、小さい漁村を舞台にした若い男女のラブストーリーを、「通俗的成功」と表現したものだった。

最初は、この若い作家以上に武士道の真摯さからかけ離れている者はいないだろうと思われた。1945年に20歳になった三島は、徴兵から逃れるために仮病を使ったぐらいだし、彼の1949年の大ヒット小説、「仮面の告白」は、彼のそとづらと、その内面に潜む暗い幻想との違いを暴露したものだったからだ。

しかしながら、1965年の短い映画、「憂国」では、三島は割腹自殺をする兵士の役を演じた。彼の鍛えられた腹筋をあらわにしながら、三島は「誠」と書かれた掛け軸の前で切腹をした。漱石の「こころ」での先生と同じように、三島は武士道という虚飾は、心理的性的欲求を隠すのに役に立つと言う事がわかってきたようだった。

1970年の死に至るまでの5年間は、三島は彼独自の武士道の解釈を世に広めた。それは彼が、以前は政治には関心を示さなかったにもかかわらず、右翼的なイデオロギーに帰依することにしたからだった。彼は子供の時から洗脳されてきた、帝国主義的な武士道の観念の多くをもう一度見直し、彼自身の「葉隠」の注釈書や、「若き侍のために」と題したハンドブックを書いたりした。このハンドブックは、彼が一生こだわって来た、時間を厳守すると言う事と、正しいマナーについての教訓的な随筆だった。

この、侍の慣習に対する強い興味は1970年にピークを迎え、その年には自衛隊市ヶ谷駐屯地で東部方面総監を監禁し、バルコニーで改憲を求める演説をした後、割腹自殺を遂げることになる。彼が息を引き取る前に、彼は己の血で「武士道」の「武」を書くつもりでいたが、あまりの痛みに成し得なかった。

三島は、いわゆる帝国主義的な武士道の、最後のあえぎとして捉えられたかもしれないが、実は他の様々な形の武士道が、それ以後も繁茂しているのである.(ありがたいことに、天皇崇拝の方は影を潜めているが。)

あまりにも有名な作家、司馬遼太郎は、彼のベストセラー、「竜馬がゆく」(1963年から66年にかけて連載)や、「坂の上の雲」(1968年から72年にかけて連載)などで、武士道の精神を賛美した。そして1980年代に、新渡戸稲造の「武士道:日本の魂」への関心が再燃した時、武士の慣習は、スポーツや企業努力にも当てはまる便利な信念として、再現したのである。このことは日本の戦後の経済復興を説明する上で役に立つだろう。

しかしながら、武士道の2つの解釈についての争いは終わるところを知らない。一方には、石平氏や、北影雄幸氏、そして2005年に「国家の品格」を2百万部以上売り上げた藤原正彦氏のような、右翼よりの作家がいる。これらの作家は、武士道が日本がよって立つべき道徳だとする。

そして他方には、日本独自の解釈よりも世界的に影響力のある、国際的とも言うべき解釈があり、これは西洋の大衆文化にまで影響を及ぼした。そのよい例は、ジョージ・ルーカスの「スターウォーズ」のシリーズである。新渡戸は武士道が、日本だけでなく世界中の人々を鼓舞する価値体系として認められることを夢見たが、ジェダイの掟を見る限り、その望みは、興味深い事にも、かなえられたようである。

そして皮肉にも、ルーカスのシリーズの要にあるのは、ちょうど漱石の「こころ」におけるのと同じように、念入りに計画された死が、若く感受性の強い心に及ぼす力のことであるのだった。

「先生」であるオビ=ワン・ケノービ(写真、右)が ダースベイダーの手にその命を委ねた時、彼は ダースベイダーの方を見やってかすかに微笑む。それは、彼が死ねば、彼は若い主人公、ルーク・スカイウォーカーの心を永遠に捉えることになることを知っていたからだった。ダースベイダーに向かって、彼は言う、「もしお前が私を殺せば、私はお前が想像もできないほどの力を得ることになるのだ。」

オビ=ワンの死は、英雄的であるのか、それとも甚だしい時代錯誤なのか?それとも永遠の力を得るための賭けなのだろうか?ルークの心の中に彼は永遠に生き続け、そしてルークを「導く」ことによって彼を意のままに操るのだ。もし武士道が若者の心を支配できなければ、一体何の役に立つだろうか。多くの点で、「スターウォーズ」は武士道の普遍的な魅力とともに、漱石のそれに対する皮肉な批判をも描き出していると言える。

しかし、ジェダイの掟は、単なる作り物であり、遠く離れた銀河でのファンタジーにすぎないではないか、という人もいるだろう。全く、それはもっともである。しかしながら、「スターウォーズ」が世界的に人々の心を掴んでいるのは、日本が武士道にいつまでも執着しているのと酷似している。

武士道は、破滅的な暗い部分を持っていると同時に、人々を鼓舞して善行を行わせる力も持ち合わせている。そして、時には抑圧された激しい欲求を隠すためにも使われる。日本がこの先、どのようにこの、不明瞭であるが間違いなく「侍の魂」であるところのものを扱っていくかが、「日本の魂」の何たるかを何世代にも渡って決めることになるだろう。(終)

2017年4月1日土曜日

第二次世界大戦と武士道


1957年に上映された映画、「戦場にかける橋」で、横柄なイギリス人の大佐が、捕虜収容所で日本人の所長に食って掛かるシーンがある。彼は、ジュネーブ条約によると、将校には労役を無理強いさせることはできない、と主張する。これを聞いて日本人の大佐は激怒する。私は西洋の法には従わない。私が従うのは武士道にだけだ、と。

新渡戸稲造の「武士道:日本の魂」が出版されて、武士道と言う概念が最初に世界に知られるようになった1900年には、それは騎士道のように称賛すべき慣例として捉えられた。武士道の人間の義務に対する献身的な態度は、世界中の人々を鼓舞し、その中には、ボーイスカウト運動を始めたロバート・ベーデン=パウエルも含まれていた。しかし、1940年代までには、「武士道」は日本人の自殺に走りやすい傾向と、軍隊の残虐さを表す代名詞になっていったのである。

今日では、その内包するところのものは、変わったところもあるが、そのままのところもある。武士道は、過ぎ去りし日々の誇りある侍を思い起こさせるが、それはまた、日本人は西洋とは違う独自の道徳を持っていると言う事を例示し続けているとも言える。それだからこそ、国家主義のグループが、1945年から52年にかけてのアメリカ占領時代に発行された、現在の憲法の改正を要求しているのだといえよう。

正道を踏み外した武士道の理論は、1930年から45年にかけて日本の知識人の中で横行し、ついには神風特攻隊のパイロット達が、侍風の辞世の句と共にコックピットの中に刀を持ち込むまでに至った。しかし、この事態は避けられないわけではなかったのだ。歴史家のオレグ・ベネシュ氏が「Inventing the Way of the Samurai」の中で書いたように、この理論は明治時代には流行ったが、1912年に明治天皇が崩御した後では、武士道の人気は学術的分野においてはすたれていった。明治天皇の後、1912年から26年まで在位した大正天皇は、身体的にも精神的にも病弱だったので、明治天皇に対してのような熱狂的な崇拝を国民から享受できなかった。そのせいで、武士道における天皇崇拝の理論は後退した。さらに、第一次世界大戦が勃発し、ヨーロッパの国々からの脅威は薄れ、日本の経済は好況を呈した。

しかしながら、この、日本と西洋とでは価値体系が違うという解釈は、いつも正しいというわけではない。「戦場にかける橋」の中には数々の辛辣なる皮肉が含まれているが、その一つは、イギリス人の大佐(写真、左)は人権を保護するジュネーブ条約などは実際はどうでもよく、ただ階級制度があるがために享受できる特権を正当化したかっただけだったということだ。一方で、捕虜収容所の日本人指揮官は、武士道を崇敬している。そしてその武士道は、武士階級に与えられた特権を守るためにもともと作られたものなのだ。つまり、イギリス人の大佐も、日本人指揮官も、どちらも時代錯誤の特権の概念にしがみついているだけなのだった。

1917年に起きたロシア革命で、急進的な社会主義の時代が始まってからは、武士道の魅力は一層薄れることになる。そして1917年から22年にかけての、ロシアの内戦を干渉したシベリア出兵の痛い撤退で、日本国内では軍隊に対する国民の反対が募ることになる。日本が1920年代に近代化したことによって、侍の慣習はもはや前時代のものとなったようであった。

では、一体何が1930年代になって武士道をまた呼び起こしたのか。その一つは、ベネシュ氏が主張するように、明治時代の終わりに井上哲次郎(写真、右)のような国家主義者によって普及した、武士道の中の帝国主義的な部分が、1910年から学校の教科書に組み込まれたことだった。これは、その世代の人たちの心の中に、このような武士道の解釈を産み付けるのに非常に効果的だったと言わざるを得ない。そして日本は、このような解釈を持って、来るべき政治的な問題を解決しようとすることになる。

30年代に入ると、日本には将来に対する不透明感が漂い始めた。それは、大不況と、長々と続き、とどまるところを知らない中国での戦争の始まりとも言える1931年の満州事変のあたりからだった。この不透明感と共に、国家主義的な気運が強まった。それは、1924年に、アメリカがすべてのアジア人の移民を禁じた移民法を施行したこと、侮蔑的だとみなされたワシントン海軍軍縮条約に対する不満、そして1932年の日本の満州での陰謀を糾弾したリットン報告書などによって煽られたと言えよう。政府の思想家や知識階級は、武士道にその解決を見出そうとした。

井上哲次郎の後を継いで、軍隊論者や歴史家は、20年代後半から30年代にかけて、平泉清の「武士道の復活」、広瀬豊の「軍人の道徳論」などのような、武士道に関する道徳的な作品を出版した。ヨーロッパで起きたファシズムの影響を受けて、多くの知識階級は、国家のアイデンティティを育み統一するのに、武士道が使えると思った。30年代初頭の日本の陸軍大将、荒木貞夫は、帝国主義的な武士道の解釈が軍隊の演習の本質的な部分になるように努めた。

しかしながら、この時代の武士道の発展において最も驚くべきことであったのは、「葉隠」という作品が流行ったことであると言えよう。「葉隠」とは、それ以前はあまりよく知られていない18世紀における侍の処世訓と逸話を集めたものである。この時代の前に学者が武士の掟について書いた時には、急進的な学者である吉田松陰や、儒学者の山鹿素行の書いたものについて集中していた。

「葉隠」は、鍋山藩藩士山本常朝が、藩の藩士のために侍の「心得」を口述したものを書き留めた書物である。「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一節から始まり、侍は主君のためにいつでも死ぬ覚悟ができていなければならないと説く「葉隠」は、帝国陸軍と海軍の一種の「バイブル」となった。30年代以前は、「葉隠」は一度も出版されたことがなかったが、戦前に、武士道の国家主義的な解釈がされるとともにそれも変わって行った。

1938年には、松波治郎が「葉隠」を称賛する注釈書を出版し、1940年には、あの著名な哲学者、和辻哲郎が、兵士が戦争に行くときに持っていけるように簡約化したものを出版した。

一体、武士道や「葉隠」についての本が、第二次世界大戦における兵士にどのような影響をもたらしたのであろうか。戦前の学者達は、敵に降伏することは、侍の掟においては許されざることであると説いた。しかし、実際の戦争中では、兵士が降伏することを拒んだのは、武士道を信じたからなのか、それともアメリカ軍に殺されることを恐れたからなのか、それとも、白旗を振ったがために自分の軍から殺されることを恐れたためなのか、はっきりと知るすべはない。帝国主義的武士道は、連合国の捕虜に対する残虐な仕打ちを正当化するのにも役立った。

しかし、この武士道の考え方は、別の、そしてもっと深刻な役割をも担ったのである。それは、最後の一人まで戦い続けるという日本の決意をも促したということであった。武士道は、日本における戦時中の多くの破滅的な体験に結びついているが、この結びつきは、戦争の何十年も前、1910年に日本の教科書が改訂されて、子供たちが武士の掟の国家主義的な解釈に洗脳され始めた時に遡るのである。

1946年に、天皇が人間宣言を行った事で、帝国主義的な武士道は本当に姿を消したかのように見えた。もっと大人しくて、平和を愛する日本が出現し、歴史的にもっと正確な侍の掟の解釈が出版されるようになった。

しかしながら、現在の日本の状況から見ると、現実はそう簡単ではないようである。最近の歴史の教科書の改訂は、あの1910年の改訂を思い起こさせる。

日本の戦前の教育制度は、帝国主義的な武士道の教育にあまりにも溢れていたので、日本人の魂からそれを取り除くのは、そう簡単ではないらしい。20世紀の後半には、それが予期されていなかったところで、また現れることになる。(続く)