2016年12月24日土曜日
夏目漱石、アイルランドのイースター蜂起、そして中国の冷戦
今年の4月24日は、1916年にアイルランドで勃発したイースター蜂起の100周年であった。イースター蜂起とは、1000人にも及ぶ愛国者がダブリンを始めとするさまざまな場所で、主要な建物を攻撃して、アイルランド共和国の樹立を宣言した事件である。アイルランド共和主義者は、一週間にわたって抵抗したが、イギリス軍の優位さに押されて、降伏した。この蜂起で、450人以上が死亡し(ほとんどが市民)、何千人もの負傷者が出た。イギリス政府は、第一次世界大戦で中央同盟国との苦闘の真っただ中であったが、この蜂起に対して3500人を逮捕し、蜂起の指導者達16人を処刑するという対応をした。
この蜂起は、今まで、失敗したとはいえ、特にイギリス軍が指導者を処刑したことから、世論を味方に引き付け、アイルランド国家主義を刺激し、過激化することになったと解釈されてきた。イギリスの支配に対する過激な抵抗は、1919年から21年までのアイルランド独立戦争となって再び勃発し、とうとう1922年にアイルランド共和国が創設されたのである。それ以来、イースター蜂起は現代アイルランドの建国神話の一部として語られている。このことは、1916年の独立宣言のコピーが世界中のアイリッシュパブに飾られていることから見ても明らかであろう。
私は、普通なら、アイルランドの歴史にどっぷり浸かるよりも、遠く離れた土地からアイルランドにエールを送りたいと思うところだ。しかしながら、地球の反対側に行ったら、自分の(あるいは自分の祖先の、と言うべきか)故郷に対する新しい洞察を得ることになったという、あまりにも興味深い体験をしたので、今回は日本文学を研究することで、表面的には全くつながりがないように見える1916年のイースター蜂起に関する思いがけない洞察をいかにして得られたか、と言う事について書いてみたいと思う。
アイルランドの最初の指導者、エイモン・デ・ヴァレラ(写真左)は、アイルランドを、農業を営み、質素で、カトリック教会に服する国、として再構築した。この姿が、イギリスの抑圧を払いのけた後のアイルランドの本来の姿であるはずだった。しかしながら、もし、他の自由を愛するビジョンが前に出ていたなら、1920年代のアイルランドにはもっと様々な可能性があったはずだった。多くの人が、アイルランドが、外部から取り残された田舎ではなく、現代的なユートピア、進歩的な理想を世界にしらしめす所であってほしいと望んだ。実際、この「別のアイルランド」は、1916年の蜂起から100年経った今になってようやく、実現され始めている。次々と起きたカトリック教会の神父による性的虐待スキャンダルのせいで、カトリック教会の権力は地に落ち、新しい自由が芽生える土壌が生まれた。同性愛者同士の結婚を許すべく、改憲することに賛成した住民投票がひとつの転機であり、デ・ヴァレラもさぞかし墓の中で驚いたことだろう。
従来の民族主義からの解離と同時に、1916年の蜂起そのものも真価を問われている。2年前、前首相のジョン・ブルートンは、敢えて、皆が言いたくても言えないこと、つまり、1916年の蜂起は実際に必要だったのか、と演説の中で問うたのである。アイルランド自治法は、すでにイギリス国会で承認されており、今や施行されんとする時に第一次世界大戦が勃発したために、戦争が終わるまで延期されてしまった。かといって、本当に、450人の命と、何千人もの負傷者を出す価値があったのだろうか? ましてや、その後何年にもわたってお互いを殺しあう内戦に陥ってしまう結果となったのだ。もう少し待っていれば、自治政府が平和的に実現されたかもしれなかったというのに。
ブルートン氏(写真右)は、1916年の指導者たちの「真摯さ」は決して疑わないと注意深く付け加えたが、歴史学者の中には、後には「殉教者」として認められることになる、あの指導者たちの目的について、明らかに批判的な者もいる。私は、1916年の蜂起の背景についてや、アイルランド民族主義者の目が回るような複雑な関係をそれほど知っているわけではないので、なにもコメントはできないが、それでも、この議論には、確かに重要な側面があると思う。実際、それは第一次世界大戦全体の理解にも関わるのであるが、全く無視されている。ここで、私は日本文学という思いがけない分野に目を向けると、非常に得るところが大きいと提案したいのである。
1916年の初め、日本の偉大なる小説家、夏目漱石は、「点頭録」という連載を朝日新聞に載せていた。日本は連合国の一員として参戦し、ドイツの極東における植民地を攻略したとはいえ、第一次世界大戦ではそれほど大きな役割を担ったわけではなかった。しかしながら、漱石が、有名な作家であり、朝日新聞の専属作家であったにもかかわらず、戦争に関してほとんど何も語っていないのは驚きである。漱石にとっては、ただいつも通りで、1916年の12月に予期せぬ死を遂げるまで小説の連載を続けていた。
「点頭録」の中で、漱石はまた「大戦」が勃発した(日本は、1904年から5年まで、日露戦争を戦ったところだったので)と言い、どちらかと言えば別に重要でもないような事、つまり、イギリスが徴兵制を始めるらしい、と言う事について述べている。漱石は、ドイツがこの戦いにおいて思いがけず手ごわかったようだ、と言い、それに対抗するために、イギリスは独自の伝統である有志による軍をあきらめ、ドイツ風の徴兵制を適用せざるを得なくなった、と言った。そして、この点において、ドイツは戦争に勝っていると言える、と言った。
普通に解釈すれば、漱石は(写真下)単に第一次世界大戦がいかに重大であったかと言う事を理解していなかった、ということになろう。そして、日本は実際の戦争の舞台からは遠く離れ、その役割も小さかったし、ましてや漱石は戦争の半ばで死んでしまったのだから、それも無理なかろう、と。
しかしながら、その解釈は間違っている、と私は言いたい。実は、漱石の観察眼は驚くべき程鋭かったのである。世界中で、第一次世界大戦の記念式典が開かれているというのに、この「徴兵制」という肝心の問題については、どこでも触れられたことがないのは、全く不思議なほどである。この問題は、イギリス帝国の歴史においての重大な分岐点を理解するうえで、必要不可欠であるにもかかわらず。
今日ではすっかり忘れ去られているが、1916年までは、イギリスは第一次世界大戦の対戦国の中で唯一、徴兵制に頼っていない国だったのである。実際、その歴史の中で、海軍力を誇る大英帝国は、徴兵制に頼る必要がなかった。王と国の名の元に、喜んで命を投げ打つ有志達に頼れることを誇りとして来たのである。実際はどうであったにしろ、大英帝国は、文明と高尚な理想とによって鼓舞された、貴族階級の紳士のクラブと見なされていて、そこでは、「原住民」は面倒を見てもらっているのであって、強制され、利用されているのではない、ということになっていた。この旗の元の自由と「共通善」という概念を共有する帝国のメンバーがいてこそ成り立っていたのだ。
徴兵制は、それをすべて永遠に変えてしまった。オーストラリアの首相、アンドリュー・フィッシャーは、1914年9月に、戦争でイギリスの味方をするかと聞かれた時、「最後の一人、最後のシリングに至るまでイギリスを守り抜く」と宣言したが、それは、オーストラリア人が帝国のために自分から命を捧げるつもりがあることを前提にしたものだった(募集用のポスター、下)。しかしながら実際は、1916年にオーストラリア政府がイギリスの圧力から徴兵制を導入しようとしたとき、国民投票によって小差ながらも拒否された(そして1917年に再び、今度はもっと大差で拒否された)。オーストラリア人は、今日も、その建国の基盤の一部としてガリポリにおける戦闘を忘れていないが、イギリスが徴兵制を無理強いしようとしたことは、それと同じぐらいに重要な事であると言えよう。「母国」のために死ぬ覚悟はできているか、と考えること以上に、自分と「母国」との関係を深く考えさせることはないだろうからだ。
同じことはカナダについても言えよう。カナダでは、1917年に徴兵制を導入しようとした時、暴動と反対運動がフランス語圏のケベックで起きたのであった。
アイルランドでは、徴兵制の問題は決定的だった。戦争が終わるまでアイルランド自治法の施行を延期すると言われたところまではまだいいが、イギリス政府は、アイルランドが徴兵制を受け入れれば、それを施行すると言い出したのだ。もちろん、イギリス政府にしてみれば、ドイツの徴兵された500万の軍に相対するために、たった10万の軍しか送れなかったのだから、大規模な徴兵が必要不可欠なことはあまりにも明らかだった。アイルランド人は、そして、カナダ、オーストラリア、そして大英帝国のあらゆる所で、多くの人々が進んで戦争で戦うことを買って出た。(もし進んで、でなければ「冒険」あるいは「仲間意識」という考えにつられて。)しかしアイルランド民族主義者にとっては、アイルランド自治法が施行されるまでは戦争を部外者として眺めているつもりだったのに、1916年に徴兵制がいよいよ導入されそうになってくるのを見て、「蜂起」せざるを得ないと思うに至ったに違いない。
私は、イギリス政府が蜂起の指導者たちを処刑したことがアイルランド民族主義を過激化したのではなく、実際は、1916年に徴兵制を導入しようとし、その上1918年にはルーデンドルフー(ドイツの指揮官)の春季攻撃で敗れた後、一層深刻に人手不足となり、再び徴兵しようとしたことのほうが、アイルランド人を独立の要求に駆り立てたのだと主張したい。
漱石の、1916年に何が起こっているのかについての洞察は、あまり意味のない事を語っているどころか、大英帝国の衰退そのものを鋭く予言していたのである。それ以後は、大英帝国は、土地を奪うために強制的に、ではなく、自由を守るべく有志によって成り立っているという神話の元には二度と軍事行動をとれなくなった。実際、オスマン帝国が敗れた後で、イギリスとフランスの間で秘密裏に中東を分け合ったサイクス・ピコ協定が結ばれたのが1916年であったというのも重要である。イギリスは、1914年にドイツのベルギーでの残虐な行為に憤激して、文明と自由をドイツの侵攻から守るべく参戦したのに、すでに1916年には、ドイツ流の戦争のやり方を倣って、帝国の拡大のために乗り出したのだった。そしてその過程で、帝国の主張した理想は、もはや致命的に葬り去られてしまった。
私はこの漱石の洞察が、今の日本の状況を分析するのに役立つと思う。第一次世界大戦のような実際の戦争ではないにしても、日本は今中国との間で、お互いがお互いに疑惑と敵意を抱く「冷戦」に直面している。日本では、中国から自らを守るために、軍隊を持つことを禁止した平和憲法を改革すべきかどうかという議論が何年も続いている。
中国がいよいよ強引になって行く一方で、日本を守るべきアメリカの権威が落ちているように見える今日では、この憂慮はほおっておけない。平和憲法は、そもそもアメリカが無理やり押し付けたものだ、という人々も多い。
しかしながら、漱石の洞察によれば、日本が自身の憲法までをも中国の脅威によって変えなければならないということは、とても「自然な」展開であるとはいえない。そしてその意味においては、漱石風に言うなら、中国はすでに「勝っている」と言えるのではないか。第一次世界大戦で大英帝国がドイツと戦った時に経験したように、そのような変化は、本来の目的を果たすことができるかもしれないが、全く予期していなかった、自滅的な結果をも長期的にもたらすことになりかねない。
私は、1916年のイースター蜂起の100周年にあたって、もう一度そもそもの原因に目を向けるべきだろうと思う。狭義の国家主義的な見方に捉われるのではなく、世界中で起きている事との関連を探り、それが今日起きている政治問題についてどのような洞察を与えるかと言う事について考えてみるべきだろうと思う。
2016年11月29日火曜日
司馬遼太郎、「風と共に去りぬ」、そしてアイルランド
今年の初め頃だったか、小説家の水村美苗氏と、その著名な翻訳家、ジューリ・カーペンター氏が、ブラッドフォード文学際に出るためにイギリスにやってくると、たまたま耳にした。それで私は、今私が修復中の、ジョージ王朝様式の屋敷を見てもらおうと、彼らを招待した。その時、「アイルランド紀行」という、日本の歴史小説家、兼、旅行作家の司馬遼太郎(1923-96年、写真上)の本を読むように薦めた。
司馬遼太郎は、「竜馬がゆく」が2100万部、そして「坂の上の雲」が1500万部売れた、大変人気のある作家である。実を言うと、私はどちらも読んだことがないのであるが、彼の「街道をゆく」に収められている膨大な量の紀行文に興味をそそられた。「街道をゆく」には、日本国内のみならず、海外の旅行先の事も描かれている。
1980年代の終わりに書かれた「アイルランド紀行」は、その題名とは裏腹に、その2巻のうちの1巻のほとんどは、ダブリンにわたる前に、ロンドンやリバプールでぶらぶらしていた時のことについて書かれている。彼は、アイルランドの歴史を正しく理解するためには、まずイギリスの歴史と対照させて理解しなければならないと言う事を知っていた。彼は、ケルト人の氏族社会と、英国の中央集権国家との違いについて考察し、そのせいでアイルランド人は侵略されたり服従したりしやすい一方、彼ら独自のアイデンティティは失う事がないと論じた。
この本で興味深いのは、日本人の作家が、どのようにイギリスとアイルランドを見ているか、ということである。たとえば、彼は、ロンドンのウエイターは、いつも彼に「Sir」と言うが、ダブリンでは言わないと言っていた。彼の観察はあまりに新鮮で、時々はその観察が、洞察力があると言えるものなのか、あるいはばかばかしいだけのものなのか、わからなくなるほどだ。リバプールでは、彼は、リバプールがマーシー川の流域にあるので、「リバー プール」という名前が付いたのではないか、と言っていた。(実際はRiverはRで、LiverpoolはLであるが、日本語ではRとLの区別がないので、そうも思えるかもしれない。もちろん英語が母国語の私には、思いつきようもないことである。)
司馬遼太郎が、とうとうアイルランドの西部とファミン(飢饉)と名付けられた道とにやって来た時、彼は、下に広がる海を眺めて、海には魚がいて、海藻もあるのに、どうしてそんなにひどい飢饉になったのだろうか、と言っていた。ばかな意見だ、と言えるかもしれないが、これは日本とアイルランドという二つの島国の、あまりにも違う食文化の伝統を際立たせるものであろう。アイルランドでは、ジャガイモがすべてで、魚はめったに食べない肉のお粗末な代替物だといつも思われていた。ましてや1850年代には、今では人気のSeaweed wrapもまだ発明されてはいなかったし。
司馬遼太郎は、特にアイルランドの文化が世界に及ぼした影響に興味があり、たとえばあの偉大なるジョン・フォード監督のルーツがアイルランドであることを論じた。ジョン・フォードは、両親の出生地であるアイルランドのゴールウェイを訪れ、「静かなる男」(写真左、ポスター)という映画を1952年に作ったのである。
これはよく知られている事だと思うが、土着のアイルランド人とイギリス人の移住者との関係において、アイルランド人が自分たちの土地をイギリス人に奪われたという悲しい記憶の疼きが、19世紀にそのまま新世界であるアメリカやオーストラリアにおいても繰り返されたのだった。17世紀にアルスター(アイルランド北東部)にイギリス人の居住地ができてからというもの、土着のアイルランド人は、地味の悪いアイルランド西部の沼地へと追いやられ続けてきた。そしてそこで、さらに土地を奪われ、飢饉に見舞われて、19世紀に大勢が移民したわけだ。
アイルランドで土地を奪われたという苦い経験は、アメリカやオーストラリアに移住したアイルランド人の記憶の中に長く残り続けた。今日、私たちがもっとも典型的にアメリカ的、あるいはオーストラリア的、と思う話は(たとえば、アメリカ、リンカーン・カウンティのビリー・ザ・キッドとか、オーストラリア、ビクトリアのネッド・ケリーの話など)、実はその多くがイギリス人とアイルランド人との間の対立関係に根差しているのである。ついでに言っておくと、土地を奪われたスコットランド人とアイルランド人が残酷な仕打ちを受けたということが、実は彼ら自身が、自分たちが移住した土地での原住民の奴隷に対して、残酷な仕打ちをするということに繋がっていったのであった。
しかしながら、司馬遼太郎の本を読むまでは、「風と共に去りぬ」という映画にとって、アイルランドの影響がどれほど重要なことかということに私自身気づかなかった。(ただ、ヒロインのオハラと言う名前は、まさしくアイルランド人の名前であるので、考え付いてもよさそうなものであったが。)
子供のころは、このあまりにも有名な「風と共に去りぬ」という映画ははっきり言ってつまらないと思っていた。あの、甘やかされたヒロインに対して、少しも同情の念は起きなかったし、彼女が最後にアシュリーといっしょになろうが、レット・バトラーといっしょになろうが、全く興味も持てなかった。私にとっては、アメリカの南北戦争についてジェーン・オースティン風に書いたものとしか思われなかった。これは褒めて言っているわけではないが。
映画そのものよりもっと面白いのは、映画にまつわる話である。たとえば、プロデューサー、デビッド・オーセルズニックがいかにしてスカーレット・オハラになる女優を見つけたか、とか(結局、あまり知られていなかったイギリス人の女優、ビビアン・リーに決まったが、そこに決まるまでにハリウッドの有名な女優はすべて、ラナ・ターナーからポーレッテ・ゴダードに至るまで、その役を射止めようとしては失敗したのであった)、あるいは、レット・バトラーのセリフ、「はっきり言って、おれはどうでもいいよ」(英語では、Frankly, my dear, I don’t give a damn)の「damn」(英語の罵る言葉)を強調せずに、「give」を強調するように、堅苦しい映倫が命じたことに対する騒動とか。
私は20代の初めの頃、姉と一緒にフロリダ州のキーウェストからアトランタまでドライブをしたことがあった。アトランタに近づくと、私は「風と共に去りぬ」の本を買って、車の中で最初の50ページを読んだ。その時読んだ、アトランタあたりの血のように赤い土の描写を、今でも忘れることができない。もし、イギリスかあるいはカリフォルニアでもソファに座ってこの部分を読んでいたなら、この描写は、それから始まる流血の南北戦争の比喩として、土壌が赤いと書かれていると思っただろう。しかしながら、アトランタ辺りの土壌は、本当に文字通り真っ赤なのだ!
とは言え、アトランタを去って以来、一度もその部分を読み返したことはなかった。しかし、司馬遼太郎の本で「風と共に去りぬ」の論評を読んでからは、この小説と映画を、全く別の角度から見るようになった。
この映画の中で一番重要なセリフは、例の「はっきり言って、おれはどうでもいいよ」ではなく、スカーレットのアイルランド出身の父親が、映画の最初で、Taraの農場を所有している事の大切さを娘に教える時に言った言葉なのだ。土地こそが一番大事なものなのだ、と彼は言う。「なぜなら、土地だけがずっとなくならないものだからだ。」あのアトランタの血のように赤い土地は、南北戦争が始まる前に、すでにアイルランドでのあの土地の強奪に関わる流血の歴史を秘めていたのだ。映画では、スカーレットの父親はまぬけなアイルランド人のように描かれているが、彼のこの言葉には、彼の強い決意がにじみ出ている:おれは以前すべてを奪われた、だが、もう2度と誰にもそんなことはさせはしないぞ。
しかしながら、甘やかされて育ったアメリカ人のスカーレットには、その土地の血に染まった歴史などわかろうはずもなかった。自分のオハラという名前がそれを示唆していたとしても。実は、「Tara」という農場の名前も、アイルランドの王の遺跡の名前から来ているのであった。
そのスカーレットが何もかも失った時、―母親も、夫も、娘も―そして南北戦争にも負けてアトランタが焼け落ちた時、望みを失った彼女の耳に、初めて父親の言ったあの言葉がこだまになって響いた。そうだ、私にはTaraがある。そしてその土地さえあれば、すべてが失われたわけではないのだった。「風と共に去りぬ」のラストシーンは、ありふれたサバイバル物のように見えるかもしれないが、しかし、それはもっとはるかに力強いメッセージを送っているのだ。スカーレットは、やっとこの時になって、自分が一体誰なのか、と言う事を理解する。自身の内に潜むアイルランド人気質に目覚めるのである。この、「偉大なるアメリカの小説」は、実はもっと深いレベルでは、アイルランド人気質とは何か、そしてそれがいかに受け継がれ続けていくものなのか、と言う事を考察したものに他ならないのであった。
水村美苗氏がアイルランドにも行く予定だと聞いた時、私は自分でもしつこいと思うほど、司馬遼太郎の「アイルランド紀行」を読むように薦めた。そしてうれしい事に彼女はそうすると言った。司馬遼太郎が、アイルランド人を描写するのに使ったある言葉を、私は忘れることができない。彼は、アイルランド人の本質は、「百敗不滅」であると言った。つまり、「百回負けてもその精神は滅びず」と言う事だ。
私は、「風と共に去りぬ」以上に、この「百敗不滅」の精神を見事に表現した作品はないと思う。
2016年11月18日金曜日
人生の知恵を教えてくれる「勧進帳」
もう30年ぐらいも前に、始めて Blake’s Sevenという、イギリスのサイエンスフィクションのドラマを見たが、その時のワンシーンが、今でも忘れられない。その中で、Blakeを中心とした反逆者たちのグループが、ある出入り口を通り抜けなければならなかったのだが、そこには、目に見えない力で守られている障壁があった。Vilaというインテリが(写真上)、何とかしようとするのだが、どのようなコード番号を入れようとも、どれほどのエネルギーを使おうとも打ち破ることができない。そのうち、やっと彼は気が付いた。そうだ、この障壁はエネルギーを使えば使うほど、そのエネルギーを吸収して、よけい強くなるんだ。それを開けるには、その目に見えない力が機能できなくなるような、ほんのわずかのエネルギーだけを使えば、その障壁は消え失せるのだ。
私たちはいつも、成功するためには、自分の持てるすべての力を注ぎこまなければいけないと言われてきた。たいていはその通りだろうが、時には、できるだけ何もしない方がいいこともある。たとえば、資料を作るだけのために雇われているような官僚たちに出くわした時には、できるだけ何も教えない方が、さっさといなくなってくれるものだ。イライラして、いろいろなややこしい事を持ち出そうとすると、ますますその行政の「見えざる力」はどうしようもなくなってしまうのである。
こんな風に、サイエンスフィクションを見ていて人生訓を得られることもあるが、歌舞伎を見れば、もっとそうである。荘厳なだけでなく、鋭い心理的洞察力を持った歌舞伎のすごさがよく知られていないのは、残念で仕方がない。
たとえば、「勧進帳」は、世界の歴史上で現れた数々の劇の中でも、特に優れた劇であるといえるだろう。「勧進帳」を見れば、今までに経験したことのないような、またとない壮大で、心躍る夜を劇場で過ごせるだろう。しかし、それは日本文化と特に関係があるからというわけではない。なんと「勧進帳」は、日々の生活をどう過ごすべきかについての深淵な知恵を、教えてくれるのである。
舞台は12世紀、義経は、自分の兄である頼朝の怒りをかい、少人数の忠実な家来たちと共に北に逃走中である。頼朝は、自分の地位を脅かすかもしれない義経を抹殺すべく、北に向かう道に番人と関所を設けた。頼朝の家来たちは、何があっても義経を逃すなと厳しく言われていた。
義経は、美しい青年で、弁慶に守られている。見つからないように、山伏に姿を変え、自分達の寺に献金してくれる者を探しながら、旅しているということになっている。その献金者の名前を、勧進帳に記す、というわけだ。
あらすじはざっとこんなものだが、面白いのは、Blake’s Sevenの時を同じように、どうしたらこの関所を無事に通り抜けることができるか、という単純な部分にある。
関守の富樫は、すぐにこの山伏の一行が義経をかくまっていると疑う。その後、弁慶と富樫との心理合戦が繰り広げられるのである。緊張感が徐々に高まり続けていく、手に汗握る展開である。とうとう、義経が今や捕まえられてしまいそうになった時に、弁慶は、武士の掟からは到底考えられない行動に出る。自らの主君である義経を、だらしのないお供だとでっちあげ、杖でたたき、早く行けと促すのである。
この場面は、富樫がそこまでして義経を助けようとした弁慶に同情して、この一行を行かせてやった、と通常は解釈されている。しかしながら、個人的には、私はその解釈に疑問を抱く。富樫は本当に同情だけで動かされたのか。それとも、むしろ、チェスのゲームにおいてでもそうであるように、富樫は弁慶との(写真右)はりつめたやりとりの中で、弁慶のあまりにも見事な戦略を称賛せざるを得なかったのではないか。その、実現不可能と思われた事を、実現させてしまった手腕に。さて、一行が無事に関所を通り過ぎた後、弁慶はひとり舞台に残っている。この後、この歌舞伎の中で一番の見せ場とも言える部分が続く。自分の主義を曲げなければならなかったことに対する葛藤に苦しむ一方で、それでも主君を救う事ができた喜びに一段と決意を固める弁慶は(写真左)、見得を切って、花道を「飛び六方」で舞台を去っていく。われらのヒーロー義経は、間一髪で捕まえられそうになったが、これでまたもう一日、生き延びることができたわけだ。
この素晴らしい舞台を理解するには、その普遍的な洞察力に気づかなければならない。
日々の生活の中で、どうしようもない障害に行く手を阻まれることがあるだろう。そんな時のために、勧進帳から次のようなことが学べるだろう。まず、ときには全く思いもしなかったような事もしなければならないと言う事だ。それが、自分にとってどうしても曲げたくない主義を曲げることになるとしても。
第二に、目前の障害物とは、たいてい、人であることが多い。その敵を負かすには、勧進帳で弁慶がやってみせたように、心理的にその敵の敵対心を取り除くことである。自分の立場をしっかりと示し、これ以上敵対するのは意味がないと感じさせることである。
この鋭い心理的洞察力は、私たちの日々の生活においてのみならず、一国の、そして国際政治においてすら意義があると言える。たとえば、イデオロギーの違いで敵対する執念深い相手が、力では勝てないとしたら?どうしたら、その相手の考えを変え、障壁を取り除くことができるだろうか。それは、相手に、自分たちの立場こそを変える必要があると言う事をわからせることだ、と勧進帳は教えてくれる。
かく言う私も、ほとんど毎週のように、何らかの危機に面する羽目になる。それが仕事上の事であろうと、面倒くさいお役所手続きに関することであろうと、あるいはやっかいな家族の問題であろうと。そして、今度こそはもうだめだ、と思いながら。しかし、そんなときはいつも、勧進帳が、通り一遍に考えずに、心理作戦で人間の障壁をこじ開けるのだ、と言う事を思い出させてくれる。知らず知らずのうちに、私は台所で、弁慶のように苦しみと喜びに顔を歪ませながら、「飛び六方」で台所を駆け抜けていくのである。
だから、もし歌舞伎を見る機会が訪れたら、逃すべきではない。そして、歴史的な事にこだわらずに、その歌舞伎が教えようとしている人生の機智を、捉えるべきなのである。
2016年10月13日木曜日
ニーチェを愛する日本
2、3年前だったか、BBC(英国放送協会)ラジオ 4の番組で、日本では、「ニーチェの言葉」(写真下)という本が、すごいベストセラーになって、100万部以上売れた、とたまたま口にしたら、その番組の司会者は、ニーチェがそんなに日本で人気があったとは、と驚いていた。
実を言うと、日本人がニーチェを好きなことは、周知の事実なのだ。去年は、生田長江という翻訳家が、ニーチェの作品を翻訳し始めた100周年記念だった。長江は、20年かかってニーチェの全作品の翻訳をするという巨大なプロジェクトに取り組み、12巻に及ぶニーチェ作品全集を作り上げた。そして彼の作品は、非常に影響力を持つことになった。
私たちが、「吾輩は猫である」、「それから」、「門」、「斜陽」、「仮面の告白」、「金閣寺」、「鏡子の家」といった、「日本的」の典型と思いがちな20世紀の文学作品の、いかに多くが、ニーチェの概念に溢れたものであるか、ということは一般に知られていないが、実はニーチェの概念の影響が、これらのどの作品にもはっきりと見られるのである。
たとえば、かの有名な夏目漱石の「吾輩は猫である」(1905-1906年)にしても、たいていの人は、軽い諷刺小説だと思っているが、とんでもない。漱石は、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を英語の翻訳版で、その本を書く直前に熟読していて、「吾輩は猫である」は、ニーチェに関する沈思黙考で溢れているのである。
漱石は、英文学に通じていたので、他の誰よりも先に、実際にニーチェを読んでいたに違いない。しかし、だからといって、日本で「ニーチェ」という名前が知られていなかったというわけではなく、それはすでに日本に強い衝撃を与えていたのだ。1901年から1903年にかけて、文学者の間で、「美的生活論争」が起こり、芸術は道徳を超えて美に関することだけに関わっていればいいか、という点について論じられた。この論争の中心にあったのは、ニーチェの革命的な考えだった。
1909年、漱石が「それから」を朝日新聞に連載していた時、生田長江という若い翻訳者が漱石を訪れ、「ツァラトゥストラはかく語りき」を日本語に翻訳するという大業の助けを求めた。長江はドイツ語に自信がなかったので、2冊の英語版から翻訳しようとしていた。長江を助けるために、漱石は「それから」を書きながら、ツァラトゥストラを再読し、ドイツ語版と英語の翻訳とを比べた。
一方で漱石は、彼の作品の中でも最も深くニーチェの影響を受けていると言える「門」(1910年)を創作しようとしていた。実は、この小説の題名は、ニーチェから直接取られたのだ。朝日新聞から、次の小説の題名を決めるように急かされていたので、彼は若い弟子たちに題名を決めるように頼んだ。弟子たちは、「ツァラトゥストラはかく語りき」の本のページをパッと開いて、たまたまそのページで見つけた言葉、「門」を選んだのだった。
漱石はその言葉を聞いたとき、すぐにツァラトゥストラにおける中心的なイメージ、永劫回帰の事を思い起こした。ニーチェの考えは、「冒険」という概念を通して、その門の中に現れる。この小説の主人公、宗助は、妻とごく普通の生活を送っていたが、彼の以前の親友が、(実はその親友の妻を自分の妻に娶ったのだが)満州で「冒険者」になった、と聞いてから、「冒険者」という言葉を聞くだけで恐怖に襲われるようになった。精神的安定を得るために、宗助は禅寺に逃げるが、その経験からは何も得ることができなかった。漱石がここで示唆しているのは、禅そのものがニーチェの言う「冒険」であり、その「冒険」を実行するには、論理を捨て、「危険」で非論理的な考え方を受け入れることが必要とされるのだ。
ニーチェの概念は、大正、昭和期の作家である、芥川龍之介や太宰治の実存主義的な苦悩にもつながるだろう。実際太宰は、彼の小説、「斜陽」(1947年)の中で、今までの価値体系が崩壊した時代の貴族階級のことを描きながら、何度もニーチェの概念をほのめかしている。谷崎潤一郎の作品に見られる虚無的なエロチシズムもニーチェの思想と深い関連性がある。
しかし、なんといっても昭和期におけるニーチェの主唱者の最たるものは、三島由紀夫であろう。三島がニーチェを気に入っていたことは誰にでも明らかで、三島が1970年に、あのように世間を騒がせる自殺をした後で、三島の母親は、あの世でも読めるようにと、三島の仏壇にニーチェの本をいつもおいておいたほどだった。
三島がニーチェを読んでいなかったら、「仮面の告白」の中で見られる人間の心理と性的関心の深淵を探る、ということは、まず不可能だったろうし、三島がその後取ったどの方向をとってみても、ニーチェに何らかの意味で繋がっている。1950年代初めに三島を捕らえた「ギリシャ熱」のせいで、三島は古代ギリシャの遺跡を訪ね(ディオニューソス劇場 写真下)、膨大な量の戯曲を書きまくったが、これも、三島がニーチェの「悲劇の誕生」を読み、その中でニーチェが、人間の本能の「ディオニュソス的」な不条理に対して起きた「アポロン的」な美の観点を、見事に論評していた事と親密に関連している。
三島は、「金閣寺」に見られるように、超越した美を探求し、伝統的な道徳を否定したが、それは三島が、20世紀初頭の、ニーチェに取りつかれた「美的生活」信奉者であったことを連想させる。実際三島は、「神の死」というニーチェの概念を日本の場合にあてはめ、日本も、1946年に昭和天皇がその神格性を否定した時、日本なりの「神の死」を体験したと主張した。そしてそれ以後、「鏡子の家」(1959年)に長々と描写されているような実存的危機に陥るのである。
皮肉なことに、前世紀からニーチェが日本の思想と文学に巨大な影響をもたらしたにもかかわらず、それは、「日本らしさ」にだけ注目している批評家からは通常は無視されている。驚くことに、朝日新聞が「それから」と「門」を再連載するに際し、膨大な量の批評と全くおもしろみのない保守的な分析を載せたにもかかわらず、そこには「ニーチェ」の一文字すら見つけられないのだ。
孔子の教えを超えることができないようである日本の文学界は、これらの優れた作品を、そのままに捉えるのではなく、「エゴイズム」への真摯な探求であると信じたいようである。これらの作品は、深遠な哲学的概念と真正面から取り組んだ、とびきり知的な諷刺小説であるが、それと同時に、さまざまな人間の状況を、思いやりを持って描写したものである、という事実にもかかわらず。
一方、翻訳家生田長江は(写真下:墓石)、20年もの歳月をニーチェの翻訳に費やし、日本の文学界に多大な影響をもたらしたにもかかわらず、今日ではほとんど忘れ去られている。
しかしながら、である。しばらく前に、私は「生田長江鑑賞協会」とでも言えるような、「白つつじの会」というグループからメールをもらった。はっきりいって、そんなグループがあると知って、私も驚いた。その協会の本部は、生田が生まれた鳥取県にある。協会誌を発行していて、私が昨年日本語で、「それから」と長江とニーチェとの関連について書いたブログを載せてもいいか、と頼んできたのである。
私は、まるで地下のゲリラ組織と、共通の目的でがっちりと手を組んだかのように感じた。そして、今こそ、ニーチェの事を現代日本文学の偉大なる歴史の中に書き込む時期であると私は思った。そこにこそニーチェは存在するのである。ニーチェこそが、排他的な概念の「永劫回帰」を防ぐために必要なものだと、私は信じるからである。
2016年10月11日火曜日
ベッキーと河野多恵子、そして日本の「かわいい」文化を考える
私が今年の初め、ロンドンの大和日英基金本部で講演をしていた時、ルーシー・ノースさんという、フェイスブックでの友達に初めて会った。ルーシーはそのイベントのために、わざわざ遠いところからやって来たのだった。ルーシーという人は、一晩や二晩、じっくり話し込まなければよく理解できないのではないか、と思わせる人だった。マレーシアで育ち、ケンブリッジ大学で日本学を専攻し、ハーバード大学で日本文学の博士号を取り、アメリカに8年間住み、それから東京には13年……
ルーシーは、自分で20年前に翻訳したという、河野多恵子という作家の(写真下)短編集を私にくれた。「河野の作品を知っていますか。」と聞いて、自分は河野の作品が大好きだと言った。その本の題名は、どう見ても変わった(しかもはっきり言って、かなり不気味な)もので、「幼児狩り」といった。おそらく自分では選ばないだろう本であったが、わざわざ私に渡された本であったので、翌日の夜、帰りの電車で読んでみることにした。
私は、ここ2,3か月、すでに自分でも「不愉快な」日本の本を読んだと思っていた。村上龍の、サド‐マゾ セックスを露骨に描いた短編集の英語版、「東京デカダンス」や、野坂昭如の、(美しいおとぎ話風に書かれているとはいうものの)あらゆる種類の身の毛もよだつような戦時中の恐怖が描かれている「小さい潜水艦に恋をしたでかすぎるクジラ」の批評を書いたからだった。それでも、この「幼児狩り」は、今までの中で断然、一番不気味であるとともに刺激的であったと言わなければならない。「幼児狩り」は、戦後日本の、重要であるが比較的知られていない女流作家が書いた、1960年代を舞台にした短編集で、どれも女性が主人公である。
河野多恵子は、昨年1月に88歳でこの世を去った。彼女は、変態的欲求というタブーを描いた谷崎潤一郎の影響を公認していた。河野の主人公も、ノイローゼを病み、嫌悪と欲求をかろうじて抑制している。その多くは、マゾで、たとえば、ある主人公は、思春期前の少女を嫌悪する一方、思春期前の少年を、支配しようとする。しかしながら、彼女の小説がその力量を発揮するのは、そのような複雑な心理状態を、まるで当たり前のように描いている点である。村上龍は、たいていは性労働者の世界であるサド‐マゾを、生々しくセンセーショナルに描いているが、河野は、まるで余談であるかのようにさりげなく描いているのである。
河野の小説は、谷崎潤一郎が書いたものよりはるかに不安な気持ちにさせると言わなければならない。というのは、河野はその「変態的欲求」をあからさまに書くのではなく、禁欲的に、その女性主人公の性格に内在しているものとして描き、辛辣な諷刺とブラックユーモアとして明らかにするからである。私にとって、このような欲求は、女性が心理的に抑圧的な社会的制約のもとで暮らすことを余儀なくされた時、よくある状況ではあるまいか、と思われて仕方がない。1960年代の日本の女性が、無理やり結婚させられ、まるで子供のように夫に養われながら隔離された生活を送り、母になるという生理的な宿命を全うするように強いられている、と感じた時、その女性の日々の心理的葛藤が、変態的欲求に形を変え、はけ口を見出すというのは、当たり前のことではないだろうか。それが、たとえば自虐行為であったとしても、あるいは自分と同じ性の幼児に対する本能的な嫌悪感であったとしても。
河野の小説の中で何度も出てくるテーマは、「偽りの親」とでも言うべきもので、血のつながった親戚だと思っていたものが実は他人だったことが露見するとか、子供の世話をまかされた義理の親が、実はその子供をひそかに嫌っているが、その縁を切れなくて苦しんでいるとか、そういった形で描かれている。たとえば、「雪」という、それは悲しい話の中で、主人公の女性は、父親の妾の子で、義理の母親としての父親の妻が、その子のしつけを強制的にさせられている。ヒステリックになったその母親が、まるでメデューサのように、ほぼ同じ年のわが子を、雪の中にほおりだしたままにして殺してしまうのだ。河野の小説の中で、河野は、日本そのものを、心理的に抑圧された女性たちにとっての「偽りの親」であると判断している、と強く感じざるを得ない。その女性たちは、自分達の主体性を抑圧し、それを偽りで、無理強いされたものにすり替えようと努めなければならないのだから。
河野の、苦痛であるにしても辛辣な小説を読んでいるのと同時期に、私は日本のテレビタレント、ベッキーが(写真上と下)日本のテレビから締め出されていく様を追っていた。ベッキーは、かわいくて、活発な31歳の女性で、日本のテレビや広告のいたるところに出ていた。日本の若い世代にとってのアイドルであり、理想の人であったベッキーであったが、ラインで、27歳の妻帯者のポップシンガー、川谷絵音に送った、不倫をほのめかすメッセージが明るみに出たとたん、日本のテレビ界から締め出されたのだった。(川谷が結婚していたということが、同じ時に明らかになったという、異様な状況であったということも言っておかなければならないが。)
特に欧米のメディアでは、日本のエンターテインメント界におけるマネージャーが、いかにタレントを強く牛耳っているかを物語り、(ベッキーのマネージャーは、彼女が10本もあるテレビのレギュラー番組から外れたほうがいいとさえいったらしい)また女性蔑視の男女間格差をも物語る出来事だとして大騒ぎになった。川谷自身は、彼が「姦通者」であるにもかかわらず(まるで明治時代の話をしているようだが)、彼のキャリアは、同じように影響を受けなかったからだ。
私も同感ではあるが、個人的には、この分析は核心をついていないと思った。私は、単に女性一般に対する日本社会の制約が露見したというだけ以上の事があると思った。
ベッキーは、日本の「かわいい」文化の権化であった。私は去年のクリスマスに、三代目 J Soul Brothersというバンドの7人の男性メンバーが出ている彼女の番組を見ていた。そのメンバーは、みんな20代から30代で、ガールフレンドに送る完璧なクリスマスプレゼントを思いつくように言われた。ベッキーともう一人の女性司会者がその順位を決めることになった。
メンバーの一人が、一緒に泊まっているホテルの部屋に、予期せぬプレゼントとして届くようにとプレゼントを選んだ。するとベッキーは、その漫画のように大きくて美しい目をして、そんなに早く彼女をホテルに連れて行けると思わないで、ととりすまして彼をたしなめたのだ。日本では、付き合っている男女がホテルでクリスマスの夜を過ごすのは当たり前になっているのに、である。一方で、他の二人のバンドメンバーは、東京デイズニーランドのチケットをクリスマスプレゼントとして選んだ。ベッキーも、もう一人の司会者も、それが一番ロマンティックなプレゼントだと言った。
欧米では、デイズニーランドは小学生以下の子供を連れて行くところで、もし30代の男性が31歳の女性、デイズニーランドにデートに連れて行くと言ったら、その男性は、ちょっと変わっているか、あるいはわざと皮肉を言っているかのどちらかだと思われるだろう。しかし日本の「かわいい」文化では、女性は永遠に子供のようでいることが好まれ、デイズニーランドに行くのは、受け入れられる、というだけではなく、理想のロマンティックなお出かけなのだ。
その番組はもちろん、始めから終わりまで「やらせ」だった。ロックバンドの男性メンバーは、女性ファンが数知れず、ホテルの部屋で楽しむことには事欠かないだろう。しかしこのファンタジーの中では、ベッキーは単に出場者というだけではなく、「かわいい」の何たるかを決めるその人なのである。それだからこそ、実際はもっと俗っぽい-つまりは普通の大人の女性-と言う事がばれてしまったら、テレビのパーソナリティを維持することはもはや難しいのである。
しかし私にとっては、ベッキーの出来事は、単にテレビの経営の仕方に関してでも、テレビにおける男女の取り扱いの格差に関してでもなかった。それは、いつもは隠されている、女性が子供のように、うぶにふるまう事を要求する圧力が、あまりにも鮮明に表されたものだった。それをしそこなった時、つまり、ありのままの女性-知的で、自立していて、たまには危ないこともするような-そんな女性になった時、河野の小説「雪」にあるように、女性は比喩的な雪の中にほおり出され朽ちていき、もっと社会の要求するイメージにあった身代わりが、取って代わることになるのだ。
「かわいい」文化に対して、あまり否定的であるように思われたくはない。それはそれなりの魅力があるし、もっと冷笑的で傍若無人な西洋の態度の方がいいと言うつもりもない。しかし、多くの知的な日本人女性は、かわいくあることを常に求める文化の中に閉じ込められていれば、心から思いっきり叫びたくなることだろうと思わざるを得ない。
何かできることがあるのだろうか?現代日本の女性に真に同情し、作られた「かわいい」文化ではなく彼らの真の心の声を聞くためには、日本の女性作家に目を向け、注意深く彼女たちの言わんとしている事に耳を傾ける必要があるだろうと私は思う。その分野でまず読むべきものとして、この奇妙な題名の本、そして女性の、子供としてではなく、複雑な大人として扱われたいという心からの叫びである、「幼児狩り」を推したいと思う。
2016年10月9日日曜日
ゆきゆきて、三島由紀夫電車
日本では、宮沢賢治にちなんだ、岩手県の花巻・釜石間を運行する「銀河鉄道の夜」電車があれば、夏目漱石にちなんだ、道後温泉行きの「坊っちゃん列車」もありあす。
そうすれば、「三島ゆき」の「三島由紀夫電車」があれば面白いと思います。(注: 三島由紀夫の本命は平岡公威で、昭和16年に「三島」というペンネームは三島市から取られたのです。)
アナウンサーは「こんにちは。こちらは三島ゆきの三島ゆきお電車です」というと、旅客の皆さんはきっと笑うでしょう。
2016年10月5日水曜日
やばいって、わからん
15年前、大阪にあったアイリッシュ・パブで、日本に着いたばかりのアイルランド人バーテンダーと、「やばい」という言葉の意味を話したことが記憶に残ります。この言葉はなかなか英語に訳するのは難しいと私がだらだらと言いましたが、率直なダブリン出身の相手は、「いや、そうでもない。英訳すれば、「F*ck that!」という意味でしょう」。私は笑って、なるほど、名訳だと納得しました。
しかし、先日の静岡新聞を読むと以下の文章に出会って、驚きました。
「言葉は流れる水のように常に変わっていく (中略) 「やばい」が登場したのは、10年以上も前。かつては警察に追われた犯人が身の危険を感じた時などに使う言葉だったのが、若い世代が「素晴らしい」「おいしい」など肯定的な意味で気軽に使うようになったとある。当時、すでに10代は7割、20代も半数が肯定的に使っていたそうだから若い人の間では今や肯定的に使うのが一般的のようだ。」
へー、そうなの。10年前の現象だが私には初耳でした。気が付かないうちに、「やばい」の意味が全く変わってしまったようです。考えると、最近、英語の「sick」は同じように否定的な意味(「ひどい」)から肯定的な意味(「素晴らしい」)に変わりました。中世に戻れば、「nice」(気持ち良い)はもともと「恐ろしい」という意味があったそうです。
人間は意味を明確にするために、言葉を使うとはかぎりません。言語の変化は、前の世代の価値観を皮肉っぽく見たり、覆したりする、人間の流動的な精神を表すところもあります。前世代から伝わった言葉を全く違った意味で日常的に使うことに気がつかないでしょう。言葉に不動の意味をつけようとすれば、言語がいかに反抗的に進化する自由を無視する無理があります。
2016年10月2日日曜日
私の「日本文学とスター・ウォーズ」論
初代「スター・ウォーズ」が、日本文化の影響を受けていると言う事は、周知の事実で、今更特に繰り返す必要もないだろう。ジョージ・ルーカスが、1958年の黒澤明の映画・「隠し砦の三悪人」から、貧しい農民が、喧嘩をしながら、お姫様を連れて敵の陣地を通り抜ける、という話の筋を取った、ということはもうすでに自明である。ルーカスはそれを、ずっと昔の、遠い銀河で起こったサイエンスフィクションに仕立て上げ、あの農民たちはC3POとR2D2に、刀はライトセーバーに、そして武士道は、フォースに組み入れられた、というわけだ。
映画と同じほどに興味深いのは、あの映画が、どれほどの様々なことから影響を受け、予期せぬ出来事の仕業もあって形作られてきたことか、ということである。ジョージ・ルーカスは、最初は、ジョーセフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」のような、神話に題材を取った作品に影響を受けた、「フラッシュ・ゴードン」的サイエンスフィクション映画を作ろうとした。筋書きは、何度も何度も書き換えられ、一時は、ルークは父親と、たくさんの兄弟がいることになっていた。それにタイトルは、「ウィルズ記録による、ルーク・スターキラーの冒険」と、なんとも長くなったこともあった。
しかしながら、なんといっても初代「スター・ウォーズ」で一番興味深いのは、オビ・ワン・ケノビが、宿敵(そして自分の元の弟子)ダース・ベイダーと、ライトセーバーで生半可な決闘をした後、負けるに任せてしまった、ということである。この、「任せる」と言う言葉が鍵である。普通の解釈では、オビ・ワンは、ルークと、レイア姫と、ハン・ソロが、ミレニウム・ファルコンに乗って母船から脱出できるように、自分を犠牲にした、と言う事になっている。
でも私は敢えて、そんな解釈は正しくない、と言おう。オビ・ワンの最後の行動は、もっとはるかに計算づくで、意味深いと思う。いったい誰が、オビ・ワンがわざとルークを見てかすかに微笑み、そして自分から死を選んだと言う事に気が付かないことがあろうか。オビ・ワンは、忘却に甘んじるような人物ではなく、ここで死ぬことによってこそ、今までよりさらに強く、若い弟子のルークの心の中に生き続けることができるということを、知っていたのにちがいない。
オビ・ワンが、スター・ウォーズエピソード4「新たな希望」の半ばで死んでしまうという筋書きは、土壇場での書き直しのようだ。もともとは、オビ・ワンは、映画のおしまいまで生き延びるのみならず、2つの続編の中でも主要な登場人物であることになっていた。ただ、ルーカスが土壇場に筋書きの変更をしたのか、あるいはオビ・ワンを演じたアレック・ギネス自身がもう続編に出たくないので筋書きを変えてもらうように提案したのかは、意見の分かれるところである。(後者のほうが、もっともらしいと思うが。)ギネスはこの映画のおかげで、膨大な富を築くことになるのであるが。
この筋書きの変更がどうもたらされたにしろ、土壇場で変更された筋書きと言うのは、映画全体としての意味にとって、きわめて重要になることはままある。
「スター・ウォーズ4」の前半で、オビ・ワンは器用に人の心を操ってみせる。オビ・ワンとルークが、帝国軍に止められたとき、オビ・ワンはいとも簡単にクローン兵隊を操り、まんまと逃げおおせる。ストーム・トルーパーは簡単に操れるが、オビ・ワンが騒がしいバーで、ルークにケンカを売って来た無法者を同じように操ろうとした時は効き目がなく、オビ・ワンはライトセーバーを使わなければならなかった。
オビ・ワンは敵をやっつけるためには、ある時は心理作戦でいけるが、ある時は腕力が必要だと言う事をよく心得ている。しかし、ある者の心を一生の間支配するには、自分自身の命をかけるだけの覚悟がなければならない。あの命を懸けた、かすかな微笑の裏には、さまざまな思いと計算があったに違いない。
この事を思うと、私はいつも、ある有名な日本の近代小説のことを思わざるを得ない。
それは、夏目漱石の「心」である。1914年に書かれた、圧倒的な人気を誇る小説で、朝日新聞で、最近、100周年を記念して全編が連載された。英語には、1956年にエドウィン・マクレランによって翻訳され、2010年には「ペンギン・クラッシック」シリーズにメレディス・マキニーの新しい翻訳が出た。
この小説は、「先生」と呼ばれる少し年上の人物によって翻弄される若い語り手の話である(1955年の市川崑の映画より、語り手が左、先生は右)。「先生」と呼ばれる登場人物は、過去に暗い秘密を持っていることが、後半に描かれるその語り手への長い手紙の中で明らかにされていく。「先生」は、彼の親友Kと自分が学生だった時の三角関係の結果、Kが自殺したことに責めさいなまれていることがわかってくる。Kは自殺することによって、先生の心を墓の下から支配しているわけである。
先生は、自殺によって、残された者の心を支配することができるとわかっているので、同じ影響を行使すべく注意深く機会を待つ。実際、彼は語り手が危篤の父親を介護するために実家へ帰るまで待ってから、自分の秘密と、自殺の意思を告げる。そして語り手が、父親の元を離れ、先生の家まで飛んで行くところで、この小説は終わるのである。先生は、注意深く計画された自殺によって、父と息子の絆よりも深いつながりを、作りあげてみせるのである。
はたしてジョージ・ルーカスが「心」を読んだことがあるか、あるいは市川崑の映画を見たことがあるか、は全くわからないが、ルーカスが支持し、尊敬した黒澤は、他の日本人もそうであるように、漱石の大ファンであった。たとえば、黒澤の1990年の映画、「夢」は、1908年に書かれた漱石の「夢十夜」へのオマージュであった。
この先生の自殺の、攻撃的な性質は、日本の漱石ファンには見落とされがちである。これは、「スター・ウォーズ」の中での、オビ・ワンの、自身を不滅にするための自殺が、高貴な犠牲のためのものと誤解されているのと同じであろう。
もうすでに有名な話だが、アレック・ギネスは、ファンが「スター・ウォーズ」をもう100回以上見たと言った時に、もう二度と見なければサインをあげると言ったそうだ。シェークスピア劇を得意とする、古典的に訓練されたギネスは、「スター・ウォーズ」がシェイクスピアの演劇のように何回も見るに価するとは思わなかったのだろう。しかし皮肉にも、ギネスが演じたオビ・ワンは、墓の下からルークの心を支配し続けた。しかしながら、「心」における先生の場合と同じように、オビ・ワンの最後の行動の本質は、奇妙なことに理解されず、見る者はいつまでも、それは衝動的な自己犠牲であって、抜け目なく計算された、心理的な操作であったとは信じようとしないのである。
2016年3月31日木曜日
翻訳の名人を偲ぶ
19世紀中期の日本においては、文語体の日本語と、
エドモンド・ブルチェットは、1822年に生まれ、
「Household Words」という雑誌でディケンズと一緒に事業したり、
勉強に熱中すれば、日本語が僅か三週間でもちゃんと熟達できる、
1850年代に、数多くの中国古典文学とともに、
その後、フリアというアメリカの収集家は、ブルチェットが、
しかし、他のものが断言したところによると、
1868年の明治維新後、大臣の伊藤博文が、
ブルチェットは、明治28年に胃袋の大出血で独身のまま、
2016年3月11日金曜日
歴史小説を書かなかった夏目漱石
来月の17日(日)に、京都漱石の會という漱石サロンに招待されて、京都の平安ホテルで、「世界の二大文豪、夏目漱石とウィリアム・シェイクスピア」という講演をする。
日本の文豪夏目漱石と世界の文豪ウィリアム・シェイクスピアと比べてみたら、何が見えてくるだろう。果たして、漱石は、シェイクスピアに比肩しうるほどの世界レベルの「文豪」と言えるだろうか。イギリス人である私にとって、それは考えるに値する大きな問題であるように思える。
確かに、劇作家と小説家の違いは大きい。劇作家は舞台の上で俳優が行う演技としゃべる台詞を通して世界を表わす。一方、小説家は、書かれた文字を通して、もっとプライベートに閉ざされた心理的な世界を描く。しかしシェイクスピアも漱石も、共に人類普遍的な問題を追及した文学者であるゆえに、二人の間には共通するところが多い。もちろんそれは偶然によるものではない。漱石が長年にわたって、シェイクスピアの文学を読み込み、細かく分析・研究していたこと、そして、明治中・後期の日本において、漱石ほどシェイクスピアの文学に詳しく、深く読み込んだ日本人はいなかったということは忘れてはならない。
ある意味では、シェイクスピアのお蔭で、漱石は作家になることができたともいえるだろう。漱石の年譜を読めば明らかなとおり、漱石は、イギリスに留学するために文部省の派遣留学生として、ロンドンにたどり着くまでの33年間の人生において、俳句と漢詩、漢文以外はほとんど何も書いてこなかった。その漱石が、留学を終えて日本に帰国したのち、小説を書きはじめるようになったのは何故なのか。
それは、漱石がロンドン留学中に、「シェイクスピア辞典」の執筆に人生の全てを傾けてきた老研究者に出会ったからであった。大学に籍を置くには学費が足りないため、ロンドンで独学的に英文学の研究を続けざるをえなかった漱石は、クレイグ先生というシェイクスピア学の権威について、個人レッスンを受けるようになる。そのクレイグ先生は、数十年間を費やして「シェイクスピア辞典」を書き続けることに心血を注いでいた。何冊もの分厚いノートに、シェイクスピアとその文学について書き込んでいくことは、先生にとってほとんどただ一つの一生の楽しみであった。
「シェイクスピア辞典」を書き上げることに人生の全てを注ぎつくすクレイグ先生から、直接シェイクスピアについて教えを受けたことは、漱石にとって大きな刺激となった。そしてそのことによって、漱石は「文学論」という大事業に取り掛かって行くことになる。もし「シェイクスピア辞典」がクレイグ先生にとって「全世界を説明する」大著であるとすれば、漱石にとって、その役割を果たしたのが「文学論」である。そして「文学論」は、漱石のその後のあらゆる文学作品の基礎を築くことになる。
2年有余の留学を終えて、漱石は、1903年1月に日本に帰国してくる。そして、東京帝国大学や第一高等学校でシェイクスピアを教えていたが、1905年1月、初めての小説『吾輩は猫である』を俳句雑誌の「ホトトギス」に発表して、一躍文名が挙がり、小説家として本格的な執筆活動を始める。そして、矢継ぎ早に小説を発表する中で、漱石は、シェイクスピアの文学を読んで、研究するだけでなくて、シェイクスピアの戯曲をしのぐ「傑作小説」を書いて、世界を驚かしてやろうという、強い欲求を持つに至る。果たしてこの試みは成功したのだろうか。
皮肉なことに、中世イングランドの分かりにくい歴史を、数多くの作品に取り込んでドラマを書いたシェイクスピアは、現在、世界一の「普遍的な作家だ」と評価されている。一方、日本の歴史を全く書こうとしなかった夏目漱石は、日本の「国民的な作家に過ぎない」と評価されてきた。
初期、中期のシェイクスピアは、中世イングランドの歴史に、そして古代ローマの歴史に、ドラマのテーマを容易に見つけることができた。シェイクスピアは天才であるが故に、『ヘンリー六世』(第一部、第二部、第三部)や『タイタス・アンドロニカッス』といった初期の作品においても、美しい台詞を溢れるように書き連ね、目覚しくドラマチックな場面を書き込むことができたが、それらは決して「傑作」だとはいえない。なぜなら、歴史を描くだけで、あるいは血に染まった、おぞましい場面を描くだけでは、優れた文学作品にはならないからである。つまり、『ヘンリー六世』や『タイタス・アンドロニカッス』といった初期のシェークスピアの戯曲には、「人間」が書き込まれていないからなのだ。
ドラマの登場人物を、見る者の記憶に強く残るキャラクターに仕上げることは、劇作家にとって最も重要な仕事である。シェイクスピアは、戯曲をいくつも書き続けることで、次第にリアリティがあり、個性のある登場人物の描写に力を入れるようになる。彼の最初の傑作とみなされるべき作品、『リチャード三世』は、歴史上有名な悪人が主人公であるが、ロンドン塔に幽閉された王子たちを殺すよう命令するリチャードでも、細かい心理描写が書き込まれているので、観衆は、このドラマが人間の「真実」を深く掘り下げた傑作であることを容易に納得できるのである。
シェイクスピアは歴史的事実を背景におくことで、登場人物のキャラクターを際立たせるという手法でドラマを書き続けたが、そのプロセスで絶えず歴史や人間の本質に対する理解と思考を深化させることで、一層魅惑的で、人の心を動かす作品を書くことに力を尽くした。そうした努力の結果、『ジュリアス・シーザー』のような中期の作品になると、主人公は五幕劇の第三幕で死んでしまう。にもかかわらず、そのあとも主人公は、舞台の上で生き続けることになる。主人公の「魂」は、その「死」で終わるものではなく、そのあともずっと続くと、シェイクスピアが考えているからだ。そうした意味で、初期の作品の登場人物は歴史の「駒」にすぎないが、中期の作品では死んだ後も、幽霊のような存在となって舞台の上に生き残り、歴史を動かし、現実に影響を及ぼす、より精神的な存在として描かれていくことになる。
シェイクスピアは、いくつもの試行錯誤を重ね、歴史と人間の真実について理解と思考を深めた結果、歴史的存在としての真の人間の「生」を描きうる大劇作家のレベルにたどり着いたわけだが、漱石の歴史観は、対照的に最初から明確であったと思われる。漱石の作品はシェイクスピアと違って初期からほとんど傑作だといえる。その理由は、漱石が小説を書き始めたのが、すでに人生経験を相当積み、思想的にもかなり成熟の域に達した、中年の37歳だったからである。しかも、漱石は、その前に、あらゆる文学の表現手法を徹底的に分析・解明した『文学論』という、とてつもなく革命的な論文を書き進めていた。アインシュタインの相対的理論を思わせる精緻な理論の上に、漱石は小説家として執筆活動を開始したのである。そしてもちろんシェイクスピアの文学を繰り返し読み返し、細かく分析していた。
漱石の歴史観は、『吾輩は猫である』と並んで、1905年1月に発表された最初の短編小説「倫敦塔」に明らかである。主人公がテムズという「三途の川」を渡って「過去の世界」に入っていく。そこで、シェイクスピアの作品に現われるロンドン塔に幽閉され、殺された王子たちなどに出会う。ロンドン塔は、まるで現在世界を一秒ごとに吸収する「過去の大慈石」として描かれている。世界のすべてが「過去」に左右されているが、主人公(漱石)が下宿に帰ると、ロンドン塔で見た幻は夢にすぎないと思う。
次の作品「カーライル博物館」では、主人公が歴史家トーマス・カーライルの昔の家を訪ねる。そこでは、現在の世界がすべて「過去」に吸収されているが、カーライルが書斎で意識を過去のことに集中させようとしても、鶏やピアノ、汽車など、現世界の音が襲って来て、妨げられてしまう。我々がいくら「過去」に帰りたいと思っても、現実世界を逃げることは不可能なのだ。「過去」が存在するのは自身の意識の中だけである。そのため、漱石は歴史の影響を認めながらも「歴史小説」を書かなかったと思われる。
シェイクスピアと違って、「歴史」を書かなかった漱石は、その後、どのようにシェイクスピアの影響を受けたのか。その話をもう少し詳しく、来月の17日に、説明させていただきたいと思う。ぜひご参加を。