2016年11月29日火曜日

司馬遼太郎、「風と共に去りぬ」、そしてアイルランド


今年の初め頃だったか、小説家の水村美苗氏と、その著名な翻訳家、ジューリ・カーペンター氏が、ブラッドフォード文学際に出るためにイギリスにやってくると、たまたま耳にした。それで私は、今私が修復中の、ジョージ王朝様式の屋敷を見てもらおうと、彼らを招待した。その時、「アイルランド紀行」という、日本の歴史小説家、兼、旅行作家の司馬遼太郎(1923-96年、写真上)の本を読むように薦めた。

司馬遼太郎は、「竜馬がゆく」が2100万部、そして「坂の上の雲」が1500万部売れた、大変人気のある作家である。実を言うと、私はどちらも読んだことがないのであるが、彼の「街道をゆく」に収められている膨大な量の紀行文に興味をそそられた。「街道をゆく」には、日本国内のみならず、海外の旅行先の事も描かれている。

1980年代の終わりに書かれた「アイルランド紀行」は、その題名とは裏腹に、その2巻のうちの1巻のほとんどは、ダブリンにわたる前に、ロンドンやリバプールでぶらぶらしていた時のことについて書かれている。彼は、アイルランドの歴史を正しく理解するためには、まずイギリスの歴史と対照させて理解しなければならないと言う事を知っていた。彼は、ケルト人の氏族社会と、英国の中央集権国家との違いについて考察し、そのせいでアイルランド人は侵略されたり服従したりしやすい一方、彼ら独自のアイデンティティは失う事がないと論じた。

この本で興味深いのは、日本人の作家が、どのようにイギリスとアイルランドを見ているか、ということである。たとえば、彼は、ロンドンのウエイターは、いつも彼に「Sir」と言うが、ダブリンでは言わないと言っていた。彼の観察はあまりに新鮮で、時々はその観察が、洞察力があると言えるものなのか、あるいはばかばかしいだけのものなのか、わからなくなるほどだ。リバプールでは、彼は、リバプールがマーシー川の流域にあるので、「リバー プール」という名前が付いたのではないか、と言っていた。(実際はRiverはRで、LiverpoolはLであるが、日本語ではRとLの区別がないので、そうも思えるかもしれない。もちろん英語が母国語の私には、思いつきようもないことである。)

司馬遼太郎が、とうとうアイルランドの西部とファミン(飢饉)と名付けられた道とにやって来た時、彼は、下に広がる海を眺めて、海には魚がいて、海藻もあるのに、どうしてそんなにひどい飢饉になったのだろうか、と言っていた。ばかな意見だ、と言えるかもしれないが、これは日本とアイルランドという二つの島国の、あまりにも違う食文化の伝統を際立たせるものであろう。アイルランドでは、ジャガイモがすべてで、魚はめったに食べない肉のお粗末な代替物だといつも思われていた。ましてや1850年代には、今では人気のSeaweed wrapもまだ発明されてはいなかったし。

司馬遼太郎は、特にアイルランドの文化が世界に及ぼした影響に興味があり、たとえばあの偉大なるジョン・フォード監督のルーツがアイルランドであることを論じた。ジョン・フォードは、両親の出生地であるアイルランドのゴールウェイを訪れ、「静かなる男」(写真左、ポスター)という映画を1952年に作ったのである。

これはよく知られている事だと思うが、土着のアイルランド人とイギリス人の移住者との関係において、アイルランド人が自分たちの土地をイギリス人に奪われたという悲しい記憶の疼きが、19世紀にそのまま新世界であるアメリカやオーストラリアにおいても繰り返されたのだった。17世紀にアルスター(アイルランド北東部)にイギリス人の居住地ができてからというもの、土着のアイルランド人は、地味の悪いアイルランド西部の沼地へと追いやられ続けてきた。そしてそこで、さらに土地を奪われ、飢饉に見舞われて、19世紀に大勢が移民したわけだ。

アイルランドで土地を奪われたという苦い経験は、アメリカやオーストラリアに移住したアイルランド人の記憶の中に長く残り続けた。今日、私たちがもっとも典型的にアメリカ的、あるいはオーストラリア的、と思う話は(たとえば、アメリカ、リンカーン・カウンティのビリー・ザ・キッドとか、オーストラリア、ビクトリアのネッド・ケリーの話など)、実はその多くがイギリス人とアイルランド人との間の対立関係に根差しているのである。ついでに言っておくと、土地を奪われたスコットランド人とアイルランド人が残酷な仕打ちを受けたということが、実は彼ら自身が、自分たちが移住した土地での原住民の奴隷に対して、残酷な仕打ちをするということに繋がっていったのであった。

しかしながら、司馬遼太郎の本を読むまでは、「風と共に去りぬ」という映画にとって、アイルランドの影響がどれほど重要なことかということに私自身気づかなかった。(ただ、ヒロインのオハラと言う名前は、まさしくアイルランド人の名前であるので、考え付いてもよさそうなものであったが。)

子供のころは、このあまりにも有名な「風と共に去りぬ」という映画ははっきり言ってつまらないと思っていた。あの、甘やかされたヒロインに対して、少しも同情の念は起きなかったし、彼女が最後にアシュリーといっしょになろうが、レット・バトラーといっしょになろうが、全く興味も持てなかった。私にとっては、アメリカの南北戦争についてジェーン・オースティン風に書いたものとしか思われなかった。これは褒めて言っているわけではないが。


映画そのものよりもっと面白いのは、映画にまつわる話である。たとえば、プロデューサー、デビッド・オーセルズニックがいかにしてスカーレット・オハラになる女優を見つけたか、とか(結局、あまり知られていなかったイギリス人の女優、ビビアン・リーに決まったが、そこに決まるまでにハリウッドの有名な女優はすべて、ラナ・ターナーからポーレッテ・ゴダードに至るまで、その役を射止めようとしては失敗したのであった)、あるいは、レット・バトラーのセリフ、「はっきり言って、おれはどうでもいいよ」(英語では、Frankly, my dear, I don’t give a damn)の「damn」(英語の罵る言葉)を強調せずに、「give」を強調するように、堅苦しい映倫が命じたことに対する騒動とか。

私は20代の初めの頃、姉と一緒にフロリダ州のキーウェストからアトランタまでドライブをしたことがあった。アトランタに近づくと、私は「風と共に去りぬ」の本を買って、車の中で最初の50ページを読んだ。その時読んだ、アトランタあたりの血のように赤い土の描写を、今でも忘れることができない。もし、イギリスかあるいはカリフォルニアでもソファに座ってこの部分を読んでいたなら、この描写は、それから始まる流血の南北戦争の比喩として、土壌が赤いと書かれていると思っただろう。しかしながら、アトランタ辺りの土壌は、本当に文字通り真っ赤なのだ!

とは言え、アトランタを去って以来、一度もその部分を読み返したことはなかった。しかし、司馬遼太郎の本で「風と共に去りぬ」の論評を読んでからは、この小説と映画を、全く別の角度から見るようになった。

この映画の中で一番重要なセリフは、例の「はっきり言って、おれはどうでもいいよ」ではなく、スカーレットのアイルランド出身の父親が、映画の最初で、Taraの農場を所有している事の大切さを娘に教える時に言った言葉なのだ。土地こそが一番大事なものなのだ、と彼は言う。「なぜなら、土地だけがずっとなくならないものだからだ。」あのアトランタの血のように赤い土地は、南北戦争が始まる前に、すでにアイルランドでのあの土地の強奪に関わる流血の歴史を秘めていたのだ。映画では、スカーレットの父親はまぬけなアイルランド人のように描かれているが、彼のこの言葉には、彼の強い決意がにじみ出ている:おれは以前すべてを奪われた、だが、もう2度と誰にもそんなことはさせはしないぞ。


しかしながら、甘やかされて育ったアメリカ人のスカーレットには、その土地の血に染まった歴史などわかろうはずもなかった。自分のオハラという名前がそれを示唆していたとしても。実は、「Tara」という農場の名前も、アイルランドの王の遺跡の名前から来ているのであった。

そのスカーレットが何もかも失った時、―母親も、夫も、娘も―そして南北戦争にも負けてアトランタが焼け落ちた時、望みを失った彼女の耳に、初めて父親の言ったあの言葉がこだまになって響いた。そうだ、私にはTaraがある。そしてその土地さえあれば、すべてが失われたわけではないのだった。「風と共に去りぬ」のラストシーンは、ありふれたサバイバル物のように見えるかもしれないが、しかし、それはもっとはるかに力強いメッセージを送っているのだ。スカーレットは、やっとこの時になって、自分が一体誰なのか、と言う事を理解する。自身の内に潜むアイルランド人気質に目覚めるのである。この、「偉大なるアメリカの小説」は、実はもっと深いレベルでは、アイルランド人気質とは何か、そしてそれがいかに受け継がれ続けていくものなのか、と言う事を考察したものに他ならないのであった。


水村美苗氏がアイルランドにも行く予定だと聞いた時、私は自分でもしつこいと思うほど、司馬遼太郎の「アイルランド紀行」を読むように薦めた。そしてうれしい事に彼女はそうすると言った。司馬遼太郎が、アイルランド人を描写するのに使ったある言葉を、私は忘れることができない。彼は、アイルランド人の本質は、「百敗不滅」であると言った。つまり、「百回負けてもその精神は滅びず」と言う事だ。

私は、「風と共に去りぬ」以上に、この「百敗不滅」の精神を見事に表現した作品はないと思う。

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