2017年2月12日日曜日

「京都漱石の會」との出会い


一昨年の10月、私は突然、丹治伊津子さんという女性からメールをもらった。丹治さんは「京都漱石の會」の会長で、年に2度の定例研究会で、漱石に関しての講義をしてもらえないか、というものだった。私は、そんな「會」があったとは知らなかったし、特にこの「會」が、東京ではなく京都で運営しているということに興味を引かれた。丹治さんは、来年の講義の前に、定例研究会に下見にいらっしゃいませんか、と誘ってくれた。

その会合は、京都市美術館で行われていて、私は11月の雨の降る日に、まだ時差ボケに悩まされながら、そこにたどり着いた。丹治さん(写真中央、上)は、午後の2つの講演の前に(これは、著名な名誉教授2人によるものらしいが)、美術館の敷地内にある茶室で茶事があり、その後昼食になる、と教えてくれた。

私は今まで、漱石と茶事とを関連付けたことはなかったので、これにはいささか驚いた(実際、1906年に書かれた『草枕』の主人公は、お茶会の気取ったやり方をばかにしていたが、これは漱石自身の気持ちを反映したものだろう)。それに個人的にも、茶道の威厳と細々とした所作を楽しむには、いくらか不格好なうえに忍耐強くもないので、いつも遠慮してきたのだ。



さて、茶事は、思った通りに滑稽な結果となった。まず何といっても、正座で長く座り続けることは不可能に近く、すぐに足をくずさなくてはならなかったので、楽といえどもだらしのない格好になってしまった。すると、上品さを取り戻そうとするかのようなむなしい願いからか、小さい金属のスツールを出してきてくれたのはいいが、残念ながら、その椅子はあまりにも小さくて、子供部屋で熊のぬいぐるみを置くにはいいだろうが、とても90キロのイギリス人には無理だった。その椅子に座ったとたん、私はその椅子の足が壊れて私のお尻の下でぺったんこになってしまいそうな気がしたが、もうこれ以上無様になりたくなかったので、6畳の茶室でお茶が優雅にゆっくりとたてられているのを眺めながら、少なくともゆっくりと壊れていってくれるように願った。

しかしながら、主催者であり、茶道の愛好家である丹治伊津子さんの事はすぐに気に入った。丹治さんは、京都の感性を体現した人だった。着物を着て、英語は一言も話さないと公言し(しかし、丹治さんは教授であるご主人といっしょに、しばらくケンブリッジに住んでいたと後でわかった)、優雅さと洗練さを持ち合わせている一方で、率直な話し方とこだわりのないユーモアのセンスも兼ね備えた、まれにみるご婦人であった。最初から、私たちの会話には笑いが絶えなかった。


茶室(写真上)の周りの庭を雨が濡らすのを見ながらお弁当を食べているうちに、いくらか茶事でのトラウマから回復した。それから美術館の外で尾形光琳の展覧会を見ようと並んでいる大勢の人のなかをすり抜けて、午後の2つの講演が行われる広い講堂にたどり着いた。最初の講演者は芳賀徹氏、東京大学の元学長で、数多い著作の中で漱石と美術品に関する分厚い本もしたためた人である。90年代に私が大学院生だった時、その本の何章かを読んだことがあったので、芳賀氏の漱石と絵画についての講演は、私がもうすでに知っていたことを思い出させるものであった。2つ目の講演は、京都大学の興膳宏教授で、漱石と漢詩についてのものであったが、漱石についての全く新しい考察と、私が今研究している現代文学とを結びつける、大変刺激的な講演内容であった。

私は、この「會」の会員が、いかに多く、そして熱心で、お互いに親密であるか、ということに興味を引かれた。多くは、この「會」に出席するために日本中からはるばるやって来ていた。講演の後で、私は、道を隔てたハイアットリージェンシー京都の個室で開かれた、15人ほどのこの「會」の幹部の集まりに招待された。私は、大きいテーブルをはさんで、主催者の丹治さんと、二人の講演者と向かい合って座り、すぐに話し始めた。

素晴らしい食事が次から次へと、まるで永遠に続くかのように供され、お酒も何本も空になった。丹治さんは、私の漱石に関する2冊の日本語の本を、両方読んでいただけでなく、ところどころでは私自身よりももっと、その内容を覚えているように見えた。私は、飲み込みが遅いのと、二人の講演者にばかり注意を払っていたのとで、私の両横に座っている人達とほとんど話さなかった。私は、彼らは単に京都に住んでいる漱石ファンなのであろうと思っていたが、宴会が始まってから2時間ぐらいしてやっと、私の左側に座っていた人に話しかけた。彼は、この「會」の副会長であった。私は、漱石のどんな点に興味がおありですか、今まで何かそれに関して書かれたことがありますか、とありふれた質問をした。おそらく会誌に何か書いたことがあるぐらいだろう、と思いながら。すると、実は彼は、漱石に関する本、『夏目漱石「こころ」を読み直す』、『漱石と仏教』、『漱石と落語』、『夏目漱石と戦争』、そして私がずっと読みたいと思っていた、『漱石と京都』などの5冊の本を出版した、水川隆夫氏であるということが明らかになったのだった。


そうか、ようやく私にもわかってきた。このテーブルに座っている人たちはほとんど、漱石に関する本を出版した人たちだったのだ、ということが。あの小津安二郎監督に関する本を書いたという末延 芳晴氏とも話をしたが(その本を彼は私にくれたのだが)、うちに帰ってから本棚を見てみたら、私がすでに読んだことのある、漱石とロンドンについての分厚い本は、なんと末延 氏によるものだったのだ。私は単に熱心なアマチュアの集まりに来ているのではなく、ドクター フー的に言うなら、惑星ガリフレイを牛耳る、タイムロードの協議会に参加しているようなものなのだ、ということを、やっと理解した。つまり、この「會」は、漱石研究者の世界においての、内なる神聖な神殿であったのだった。

何時間も続いた宴会とおしゃべりの後(実際、あまりに長くて丹治さんはテーブルで居眠りをしていたが)、みんなでホテルのロビーに行って、記念写真を撮った(写真上)。まるで疲れ果てた中年のグループのように見えたが。

一か月後、イギリスに戻った時、丹治さんから正式の招待を受け取った。去年の4月、京都の平安ホテルで行われる定例研究会での講演依頼だった。私はそのタイミングはあまり都合がよくないと言った。オーストラリアで予定があって、子供たちと一緒にタスマニアにいるかもしれない…… すると、丹治さんはそんな私の逃げ口上はものともせず、こう言った。じゃあ、ご家族をオーストラリアにおいて、ご自分一人で来られたら?

実際、私がどうしてこの権威ある漱石研究者の会に出席することを断ることができようか。そういうわけで、私は去年に4月に、「世界の二大文豪、夏目漱石xウイリアム・シェイクスピア」と銘打った講演をすることになった。去年は、夏目漱石の死後100周年であるとともに、シェークスピアの死後400周年でもあったのである。

その講演会の後、京都市北野天満宮東の「おかもと紅梅庵」で、夕食会が行われた。水川隆夫氏、末延芳晴氏、西村好子氏、綾目広治氏という、著名な評論家たちが、会長・丹治伊津子氏、そして書道の先生・小阪美鈴氏、京和泉社長夫妻、ボストン大学の日本文学教授サラ・フレデリック氏という友達とともに、参加してくれた。


もしこの一時間のトークをお聞きになりたければ、下のリンクをクリックしていただきたい。

https://www.youtube.com/watch?v=DWqMSlZAbkQ


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