2015年4月30日木曜日

『それから』とニーチェ




朝日新聞で夏目漱石の『それから』が只今連載中だ。小説の解釈は様々だが、私見では、ニーチェとの関連はその最も興味深い要素だ。

へえ?ニーチェ?漱石がニーチェの作品を細かく読んどことはあまり知られていないが、漱石の小説にニーチェの影響は極めて大きい。

漱石が初めてニーチェの名作『ツァラトゥストラ』を読んだのは、明治38年(1905年)だと思われる。ドイツ語の原文ではなく、アレキサンダー・ティールの英訳(1896年)を、どんなに克明に精読したのか、漱石の書き込みを見ると、一目瞭然だ。漱石蔵書2400冊の中で、その書き込みは、他の作品におけるそれを遥かに凌ぐ。『ツァラトゥストラ』に対する漱石の考えは、変形の過程をたどり、乱れた感情を抜き出してから、滑稽なニュアンスを加えられて、『吾輩は猫である』の中に数多く散布されていった。

そのあと、『野分』、『文学論』、『三四郎』などで、ニーチェのことが繰り返して論じられている。

当時の日本では、ニーチェという名前は知られていたが、漱石のように、ニーチェの作品を厳密に読んだ人はほとんどいなかった。

『それから』が書かれた明治42年(1909年)に、生田長江という若い学者が『ツァラトゥストラ』を日本語に翻訳し始めた。しかし、ドイツ語の原書から直に翻訳する自信を持っていなくて、二種類の英訳を使っていた。優れた英文学者であった漱石は、この英訳に関して無比の相談相手であった。そのため、1909年の4月、6月、7月に、生田が漱石の家を訪問したことが漱石の日記に記されている。

しかし、この翻訳活動は漱石と生田との不思議な間柄のために、意外な方向に展開していった。実際は漱石が生田を非常に嫌っていたのがすぐ明らかになった。『それから』に現れる寺尾という翻訳者に対するかなり批判的な描写は生田に対する漱石の残酷な風刺であった。漱石は寺尾を、金銭に悩み、仕事にだらしない翻訳者のように描いているので、生田が漱石と相談するのをやめて、代わりに森鴎外の許へ行った。

当然なことに、ニーチェ思想との漱石の取り組みが『それから』にも現れてくる。例えば、ニーチェは「勇気はまた同情をも打ち殺す」と書いたが、漱石はそれを逆手にとって、また同情できるようになるために、自分の中に勇気を見つけなければならない代助を描く。三千代との出会いによって、同情を与える能力が回復した代助は、初めに軽蔑していた寺尾を、小説の終わりに、気の毒に思って、実は自分より「自然の子」だと考えるようになる。そのうえ、父が仕送りしなければ、代助も寺尾のように、翻訳することで、生計を立てなければならない羽目に陥る。皮肉なことに、彼は第二の寺尾になりかねない。。。

朝日新聞の読者たちよ、拙著『日本人が知らない夏目漱石』などで、『それから』とニーチェの面白い関連をぜひ探検してください。

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