2016年3月31日木曜日

翻訳の名人を偲ぶ


現在、数多くの日本人は、最も統一され、合理的かつ、これ以上もない美しい言語の一つをもつのは、あまりにも当たり前のことだと思っているらしい。新聞に活字として載る日本語が日常会話においての日本語と同一同然であるのは、極めて当然なことに見える。ところが、かつてはそうではなかった。

19世紀中期の日本においては、文語体の日本語と、道で交わされた日本語が、ほとんどまったく違った言語であった。これらの二種類の日本語を統合しようという「言文一致」運動が明治時代に起こったが、これは明治時代の最も優れた偉業の一つであった。また、それだけでなく、言文一致の背景には、ビクトリア女王時代のイギリスに存在した、驚くべき天才の努力によって、感謝すべきところがある。

エドモンド・ブルチェットは、1822年に生まれ、チャーターハウス校と、ケンブリッジ大学で教育を受けた。彼は、数多くのヨーロッパ言語と、古代ギリシア、ローマの古典語を16歳の誕生日前に熟達していたので、若い時期から驚嘆すべき語学の天才として、世間の注目を引いた。

「Household Words」という雑誌でディケンズと一緒に事業したり、キット・カット・クラブという文芸グループの伝記を書いたりしたブルチェットが、最初に興味を持った日本の文献は、当時、「ルークー列伝」と呼ばれていた、沖縄についてのオランダ人の貿易使節報告書だそうである。ブルチェットは、その後も日本語や中国語を独学で勉強したのだが、日本語は、主として、オランダ人が持って帰ってきた「古事記」や「万葉集」から得た知識であった。

勉強に熱中すれば、日本語が僅か三週間でもちゃんと熟達できる、語学的に簡単な言語であると、ブルチェットは、一生を渡って主張した。彼の憧れの的は、エジプト学者でありロゼッタ石の解読者である、フランス人のシャンポリオンである。ブルチェットは、語学の分野で、シャンポリオンのように業績を残したいと思ったようである。

1850年代に、数多くの中国古典文学とともに、今もなお出版が続いている「膝栗毛」や、世間に絶賛された、「新古今和歌集」が、どんなに人気を得たかというのは、翻訳本が1850年代に大英帝国と、アメリカを渡り、日本への関心が次第に広がり、1867年のパリ博覧会で日本人に対する熱狂的な歓迎によって、絶頂を極めた。

一方で、ブルチェットは鋭い実務家で、英国の王位科学研究所で東亜地図の顧問であり、日本美術と陶器について、最も専門的知識がある人であると、当時認められていた。1854年の王位美術院の展示会でブルチェットに出会ったアメリカ画家のホ一スースラーは、浮世絵版画の美しさに関心を向けて、三年後に「赤、緑、藍のソナタ」という、それによって刺激された絵を描いた。

その後、フリアというアメリカの収集家は、ブルチェットが、理想的な美術鑑定家であると日記に記して、ワシントンにある彼の市立ギャラリー(写真、下)で、建物の一翼をブルチェットへの敬意の印として、献呈した。

ブルチェットは日本へ渡航する機会は何回もあったが、その機会をすべて断った。なぜなら、当時、日本へ渡航するのに六ヶ月もの歳月を要したので、彼は、「日本に対する興味は、第一に文学のみなのだから、六ヶ月もの旅行は必要ない」と考えていた。

しかし、他のものが断言したところによると、西洋を最初に訪ねた(反幕府派の長州藩から来た)日本人の一人は、簡単な挨拶をどうしても翻訳の名人にわかってもらえなかったと、こぼし、ブルチェットの方は、死ぬほど当惑していたそうである。

1868年の明治維新後、大臣の伊藤博文が、再び公式の招待をブルチェットに提出したが、古典日本語で書かれたブルチェットの返事は、伊藤の敬語のだらしない使い方をややしかりながら、ブルチェットは「私は、書物の言葉しか話さない」と、断言した。これは、朝日新聞の当面に載せられて出版された。この手紙のやりとりを新聞で読んだ二葉亭四迷(写真、下)という青年が、「文語と口語との、どうしても和解できないような、大きな隔たりに、かけ橋となる小説がいつか現れるのではないか」というような抗議の手紙をブルチェットに送った。日本初の現代小説と評価されてきた「浮雲」が、明治21年頃に出版された時まで、ブルチェットと二葉亭との実りある文通が数年にわたって続いた。

晩年には、ブルチェットが森鴎外や、幸田露伴のような文豪のこれ以上もない解釈者であったことが、あまりにも明白であったために、彼の翻訳の業務が再び要求された。日本が、昭和44年まで文学のノーベル賞を獲得しなかったのは、第二のブルチェットが世界にいなかったからだと、たびたび惜しまれたことがある。

ブルチェットは、明治28年に胃袋の大出血で独身のまま、孤独に亡くなった。彼の脳は抜き取られ、大英博物館で壷に保管されているが、現在でも脳学者によって彼の脳は、たびたび検査されている。遺体の残りは、ロンドンのノッティング・ヒルに葬られている。


2016年3月11日金曜日

歴史小説を書かなかった夏目漱石


来月の17日(日)に、京都漱石の會という漱石サロンに招待されて、京都の平安ホテルで、「世界の二大文豪、夏目漱石とウィリアム・シェイクスピア」という講演をする。

日本の文豪夏目漱石と世界の文豪ウィリアム・シェイクスピアと比べてみたら、何が見えてくるだろう。果たして、漱石は、シェイクスピアに比肩しうるほどの世界レベルの「文豪」と言えるだろうか。イギリス人である私にとって、それは考えるに値する大きな問題であるように思える。

確かに、劇作家と小説家の違いは大きい。劇作家は舞台の上で俳優が行う演技としゃべる台詞を通して世界を表わす。一方、小説家は、書かれた文字を通して、もっとプライベートに閉ざされた心理的な世界を描く。しかしシェイクスピアも漱石も、共に人類普遍的な問題を追及した文学者であるゆえに、二人の間には共通するところが多い。もちろんそれは偶然によるものではない。漱石が長年にわたって、シェイクスピアの文学を読み込み、細かく分析・研究していたこと、そして、明治中・後期の日本において、漱石ほどシェイクスピアの文学に詳しく、深く読み込んだ日本人はいなかったということは忘れてはならない。

ある意味では、シェイクスピアのお蔭で、漱石は作家になることができたともいえるだろう。漱石の年譜を読めば明らかなとおり、漱石は、イギリスに留学するために文部省の派遣留学生として、ロンドンにたどり着くまでの33年間の人生において、俳句と漢詩、漢文以外はほとんど何も書いてこなかった。その漱石が、留学を終えて日本に帰国したのち、小説を書きはじめるようになったのは何故なのか。

それは、漱石がロンドン留学中に、「シェイクスピア辞典」の執筆に人生の全てを傾けてきた老研究者に出会ったからであった。大学に籍を置くには学費が足りないため、ロンドンで独学的に英文学の研究を続けざるをえなかった漱石は、クレイグ先生というシェイクスピア学の権威について、個人レッスンを受けるようになる。そのクレイグ先生は、数十年間を費やして「シェイクスピア辞典」を書き続けることに心血を注いでいた。何冊もの分厚いノートに、シェイクスピアとその文学について書き込んでいくことは、先生にとってほとんどただ一つの一生の楽しみであった。

「シェイクスピア辞典」を書き上げることに人生の全てを注ぎつくすクレイグ先生から、直接シェイクスピアについて教えを受けたことは、漱石にとって大きな刺激となった。そしてそのことによって、漱石は「文学論」という大事業に取り掛かって行くことになる。もし「シェイクスピア辞典」がクレイグ先生にとって「全世界を説明する」大著であるとすれば、漱石にとって、その役割を果たしたのが「文学論」である。そして「文学論」は、漱石のその後のあらゆる文学作品の基礎を築くことになる。

2年有余の留学を終えて、漱石は、1903年1月に日本に帰国してくる。そして、東京帝国大学や第一高等学校でシェイクスピアを教えていたが、1905年1月、初めての小説『吾輩は猫である』を俳句雑誌の「ホトトギス」に発表して、一躍文名が挙がり、小説家として本格的な執筆活動を始める。そして、矢継ぎ早に小説を発表する中で、漱石は、シェイクスピアの文学を読んで、研究するだけでなくて、シェイクスピアの戯曲をしのぐ「傑作小説」を書いて、世界を驚かしてやろうという、強い欲求を持つに至る。果たしてこの試みは成功したのだろうか。

皮肉なことに、中世イングランドの分かりにくい歴史を、数多くの作品に取り込んでドラマを書いたシェイクスピアは、現在、世界一の「普遍的な作家だ」と評価されている。一方、日本の歴史を全く書こうとしなかった夏目漱石は、日本の「国民的な作家に過ぎない」と評価されてきた。

初期、中期のシェイクスピアは、中世イングランドの歴史に、そして古代ローマの歴史に、ドラマのテーマを容易に見つけることができた。シェイクスピアは天才であるが故に、『ヘンリー六世』(第一部、第二部、第三部)や『タイタス・アンドロニカッス』といった初期の作品においても、美しい台詞を溢れるように書き連ね、目覚しくドラマチックな場面を書き込むことができたが、それらは決して「傑作」だとはいえない。なぜなら、歴史を描くだけで、あるいは血に染まった、おぞましい場面を描くだけでは、優れた文学作品にはならないからである。つまり、『ヘンリー六世』や『タイタス・アンドロニカッス』といった初期のシェークスピアの戯曲には、「人間」が書き込まれていないからなのだ。

ドラマの登場人物を、見る者の記憶に強く残るキャラクターに仕上げることは、劇作家にとって最も重要な仕事である。シェイクスピアは、戯曲をいくつも書き続けることで、次第にリアリティがあり、個性のある登場人物の描写に力を入れるようになる。彼の最初の傑作とみなされるべき作品、『リチャード三世』は、歴史上有名な悪人が主人公であるが、ロンドン塔に幽閉された王子たちを殺すよう命令するリチャードでも、細かい心理描写が書き込まれているので、観衆は、このドラマが人間の「真実」を深く掘り下げた傑作であることを容易に納得できるのである。

シェイクスピアは歴史的事実を背景におくことで、登場人物のキャラクターを際立たせるという手法でドラマを書き続けたが、そのプロセスで絶えず歴史や人間の本質に対する理解と思考を深化させることで、一層魅惑的で、人の心を動かす作品を書くことに力を尽くした。そうした努力の結果、『ジュリアス・シーザー』のような中期の作品になると、主人公は五幕劇の第三幕で死んでしまう。にもかかわらず、そのあとも主人公は、舞台の上で生き続けることになる。主人公の「魂」は、その「死」で終わるものではなく、そのあともずっと続くと、シェイクスピアが考えているからだ。そうした意味で、初期の作品の登場人物は歴史の「駒」にすぎないが、中期の作品では死んだ後も、幽霊のような存在となって舞台の上に生き残り、歴史を動かし、現実に影響を及ぼす、より精神的な存在として描かれていくことになる。

シェイクスピアは、いくつもの試行錯誤を重ね、歴史と人間の真実について理解と思考を深めた結果、歴史的存在としての真の人間の「生」を描きうる大劇作家のレベルにたどり着いたわけだが、漱石の歴史観は、対照的に最初から明確であったと思われる。漱石の作品はシェイクスピアと違って初期からほとんど傑作だといえる。その理由は、漱石が小説を書き始めたのが、すでに人生経験を相当積み、思想的にもかなり成熟の域に達した、中年の37歳だったからである。しかも、漱石は、その前に、あらゆる文学の表現手法を徹底的に分析・解明した『文学論』という、とてつもなく革命的な論文を書き進めていた。アインシュタインの相対的理論を思わせる精緻な理論の上に、漱石は小説家として執筆活動を開始したのである。そしてもちろんシェイクスピアの文学を繰り返し読み返し、細かく分析していた。

漱石の歴史観は、『吾輩は猫である』と並んで、1905年1月に発表された最初の短編小説「倫敦塔」に明らかである。主人公がテムズという「三途の川」を渡って「過去の世界」に入っていく。そこで、シェイクスピアの作品に現われるロンドン塔に幽閉され、殺された王子たちなどに出会う。ロンドン塔は、まるで現在世界を一秒ごとに吸収する「過去の大慈石」として描かれている。世界のすべてが「過去」に左右されているが、主人公(漱石)が下宿に帰ると、ロンドン塔で見た幻は夢にすぎないと思う。

次の作品「カーライル博物館」では、主人公が歴史家トーマス・カーライルの昔の家を訪ねる。そこでは、現在の世界がすべて「過去」に吸収されているが、カーライルが書斎で意識を過去のことに集中させようとしても、鶏やピアノ、汽車など、現世界の音が襲って来て、妨げられてしまう。我々がいくら「過去」に帰りたいと思っても、現実世界を逃げることは不可能なのだ。「過去」が存在するのは自身の意識の中だけである。そのため、漱石は歴史の影響を認めながらも「歴史小説」を書かなかったと思われる。

シェイクスピアと違って、「歴史」を書かなかった漱石は、その後、どのようにシェイクスピアの影響を受けたのか。その話をもう少し詳しく、来月の17日に、説明させていただきたいと思う。ぜひご参加を。

2015年8月5日水曜日

人の名前には殺す力があるでしょうか

最近は忙しくて、日本の新聞を読む時間すらないです。それで、今日、カバンから一ヶ月前の朝日新聞を取り出して、「天声人語」を読むと、以下の面白い文章に出会いました。

「確かに名前には不思議な力が宿る。作家三島由紀夫の本名は平岡公威。若々しいペンネームに比べ、荘厳な感じだ。もし本名で書いていたら、あの若さで死を遂げることはなかっただろうという見方を、どこか読んだ記憶がある。」

三島さんの自殺した理由はその名前にあるという説は、初耳です。

ちなみに、同紙の3ページめの「人」欄に、ベトナム系米国人作家モニク・トゥルンさんのことが紹介されています。小泉八雲を描く小説を執筆中だそうです。楽しみです。

2015年4月30日木曜日

『それから』とニーチェ




朝日新聞で夏目漱石の『それから』が只今連載中だ。小説の解釈は様々だが、私見では、ニーチェとの関連はその最も興味深い要素だ。

へえ?ニーチェ?漱石がニーチェの作品を細かく読んどことはあまり知られていないが、漱石の小説にニーチェの影響は極めて大きい。

漱石が初めてニーチェの名作『ツァラトゥストラ』を読んだのは、明治38年(1905年)だと思われる。ドイツ語の原文ではなく、アレキサンダー・ティールの英訳(1896年)を、どんなに克明に精読したのか、漱石の書き込みを見ると、一目瞭然だ。漱石蔵書2400冊の中で、その書き込みは、他の作品におけるそれを遥かに凌ぐ。『ツァラトゥストラ』に対する漱石の考えは、変形の過程をたどり、乱れた感情を抜き出してから、滑稽なニュアンスを加えられて、『吾輩は猫である』の中に数多く散布されていった。

そのあと、『野分』、『文学論』、『三四郎』などで、ニーチェのことが繰り返して論じられている。

当時の日本では、ニーチェという名前は知られていたが、漱石のように、ニーチェの作品を厳密に読んだ人はほとんどいなかった。

『それから』が書かれた明治42年(1909年)に、生田長江という若い学者が『ツァラトゥストラ』を日本語に翻訳し始めた。しかし、ドイツ語の原書から直に翻訳する自信を持っていなくて、二種類の英訳を使っていた。優れた英文学者であった漱石は、この英訳に関して無比の相談相手であった。そのため、1909年の4月、6月、7月に、生田が漱石の家を訪問したことが漱石の日記に記されている。

しかし、この翻訳活動は漱石と生田との不思議な間柄のために、意外な方向に展開していった。実際は漱石が生田を非常に嫌っていたのがすぐ明らかになった。『それから』に現れる寺尾という翻訳者に対するかなり批判的な描写は生田に対する漱石の残酷な風刺であった。漱石は寺尾を、金銭に悩み、仕事にだらしない翻訳者のように描いているので、生田が漱石と相談するのをやめて、代わりに森鴎外の許へ行った。

当然なことに、ニーチェ思想との漱石の取り組みが『それから』にも現れてくる。例えば、ニーチェは「勇気はまた同情をも打ち殺す」と書いたが、漱石はそれを逆手にとって、また同情できるようになるために、自分の中に勇気を見つけなければならない代助を描く。三千代との出会いによって、同情を与える能力が回復した代助は、初めに軽蔑していた寺尾を、小説の終わりに、気の毒に思って、実は自分より「自然の子」だと考えるようになる。そのうえ、父が仕送りしなければ、代助も寺尾のように、翻訳することで、生計を立てなければならない羽目に陥る。皮肉なことに、彼は第二の寺尾になりかねない。。。

朝日新聞の読者たちよ、拙著『日本人が知らない夏目漱石』などで、『それから』とニーチェの面白い関連をぜひ探検してください。

2015年4月27日月曜日

毎日新聞の記事、ユーチューブのインタビュー

先週、毎日新聞ロンドン支局の小倉孝保さんに会って、インタビューを受けました。そのあと、拙著『三島由紀夫』の新しい三島像が毎日新聞の「発信箱」欄で紹介されていました。

http://mainichi.jp/opinion/news/20150225k0000m070114000c.html

小倉孝保さんが今月の「アジア時報」の「毎日新聞特派員の目」欄で私の漱石研究も紹介してくれます。小倉さん、ありがとうございました!

ユーチューブのインタビューも日本語で受けました。以下のとおりです。

https://www.youtube.com/watch?v=bmdAW_msf38

2015年1月11日日曜日

関西の楽しさ


恥ずかしながら、日本語のブログを載せたのは何と四年ぶりだ。時間はどこに行ってしまっただろうか。その四年間の間に、二人の娘が生まれ、赤ちゃん三人の育児で忙しかったというか、英語の新著・「三島由紀夫」の研究資料集め・執筆に没頭していたというか、イギリスのビジネスで手が回らないというか、いずれも口実にすぎない。やはり自分の惰性がその根本的な理由にある。反省している!年が改めて、日本語のブログを再開する。ちなみに、フェイスブックやツイッター(@damianflanagan)で日本語で唾焼いているので、興味のある方は是非つながってください。

今年は、十年ぶりに、お正月を日本で迎えた。家族五人で西宮の庵に戻って嬉しかった。先月、京都南座の歌舞伎座で顔見せ歌舞伎を見ることが何よりの楽しみだった。昼の部、夜の部、両方たっぷり観劇した。相変わらず、素晴らしかった。そして、子供達も日本を楽しんでいた。マイクロスクーターをイギリスから持ってきて、スクーターを飛ばして郊外のあちこちを楽しく回った。

関西にいる間に、どうしてもやりたいことがありすぎて、時間だけが足りない。神戸の北区、ハーバーランドなどの散歩。ガイドブックを携えて、京都の寺や神社を探検。先月の26日にオリエンタルホテルの豪華なレストランで昼食して、その後、神戸市博物館で古代エジプト展示を見た。そして、何よりも大阪の梅田、心斎橋、難波で夜を過ごすことが私にとって至楽です。昔からの友達とひと時を過ごすのももちろんのこと。(上の写真は、お正月に親友・高木忍さんの家を訪ね、大変なご馳走をもらった場面だ。)

「関西にずっと残りたい」といつも思いながら、イギリスに帰らなければなりません。悔しい。関西の楽しさは私にとって実に無限です。

ところで、最来週の月曜日(26日)、ケンブリッジ大学のアジア中東学部(第八、九号室)で午後5時から三島由紀夫氏について講演するので、興味のある方はぜひ参加してください。詳細はこちら

そして、2月28日(土)の午後2時から、リバプールのワールド博物館で三島由紀夫氏について講演する。詳細はこちら

2011年3月10日木曜日

「三角な世界」に住みたい



先週、『草枕』英訳である『The Three Cornered World』の新版がイギリスの自宅に届きました。ダミアンの序論・後書きを載せています。中身はともあれ、とりあえず表紙はきれいだなと満足に思っています。

去年、山から棒のような連絡が入って、NHKが『The Three Cornered World』について番組を作成するので、御協力を頂けないか、と聞かれました。はい、はい、ぜひ協力させてくださいと答えました。それで、マンチェスターでインタービューをしたいという話になったが、やはり予算の足が出たか、遠いマンチェスターまでNHKスタッフが行くことが面倒くさかったか、結局、誰もこななかった。(涙)ダミアンの代わりに、東大のアメリカ人の教授がインタビューに出たようです。(笑)

その番組が、幽霊のように、急に現れたり、急に消えたりしたが現世界に残ったのは、その番組のために用意した、『The Three Cornered World』に対するノートです。今日、ダミアン・ブログの大勢の読者たちにその感想を紹介したいと思います。以下の文章を、夜遅く、マンチェスターの自宅で早く書きましたので、覚束ない日本語で自分の意見をうまく表現できなかったと思いますが、何卒御寛恕ください。

NHKが質問したのはは唯一つでした。英語圏では、『草枕』の英訳本である『The Three Cornered World』の評価は何ですか?ダミアンの答えは以下の通りです。

まず、英語圏では、漱石のことはほとんど知られていません。そして、日露戦争に巻き込まれた当時の日本、もっと大きく言えば、明治の日本のことに関する知識さえ乏しいので、英語圏の読者は、『草枕』を英語で読むと、その作品の文芸的な、歴史的な背景をほとんど無視しています。漱石のほかの作品とどういう関係があるかもちろん知らないし、「夏目漱石」という作家はどういう人であったか、わかりません。逆に、まったく、時空を越えた、作家から独立した芸術作品として読むしかないです。そのため、『草枕』に対する日本人の感想と、英訳本である『The Three Cornered World』に対する英語圏の読者の感想は微妙に違っています。

その違いは、やはり、題名自体から始まります。『草枕』を英語に直訳すれば、「Pillow of Grass」になりますが、この小説を1965年に翻訳したアラン・ターニーさんは、「Pillow of Grass」という題名は英語圏の読者にはおかしく聞こえるではないかと考えて、勝手に英訳本の題名を「The Three Cornered World」(三角な世界)に変えました。題名は、『草枕』の以下の文書に由来しています。

して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。


英訳のほうが1960年代に出たことは注目すべきことであると思います。1960年代には欧米の社会が大きく変わって、従来の画一化された組織、堅苦しい道徳などが崩れて、人間の抑圧さえれた本能が開放されてきました。一語にいえば、個人主義の時代に変わりました。若い人たちが親の時代の先入見を捨てて、世界に対する新しい見方を探しました。1960年代の後半に、ロンドンやニューヨークやカリフォルニアなどで若い人たちがLSDのような幻覚剤を試したりして、体制社会から非難するヒッピー運動が現れました。

『草枕』の英訳本の出現は、この時代の流れの中に入れたいと思います。『The Three Cornered World』という題名自体は、「これは四角四面の世界ではなくて、反体制の「三角の世界」である」と宣言しています。そして、主人公は典型的な日本人サラリーマンのような、権力に服従する人ではなくて、逆に、個人性にあふれているユニークな世界観を持っている芸術家です。彼は、一時的にせよ、社会から非難して、「非人情」の立場から世界を観察したいと思っています。世界を美術の現象として考える実験です。しかし、この社会からの離脱、この俗界を超越した考え方、この主人公の独特の人格は、1960年代の思想の流れにぴったり一致して、『The Three Cornered World』はなぜ、ほかの漱石の作品よりも、欧米に大きく歓迎されたか、説明すると思います。

面白いことに、漱石が主張しているのは、社会からの逃亡、美術世界に専念することではないです。逆に、いくら「詩の世界」が人間の疲れた精神を治療できると認めても、最後に「現実世界」から逃げるのは不可能である、と論じているのです。なぜならば、世界から隔離された『草枕』の温泉場でも、「現実世界」からの波乱がしみこむ。お那美の甥が汽車で満州に出征してゆくという最後の場面では、「現実世界に引きずり出された」と画家は思う。日露戦争が『草枕』の世界をのしかかるように迫るが、同じように、『The Three Cornered World』が出版された1960年代に、ベトナム戦争がヒッピーの非現実的な世界を揺さぶった。最後に、現実世界の問題とどうしても取り組まなければなりません。

その1960年代に始まった「個人主義の時代」が今でも続いていて、『The Three Cornered World』を愛読する欧米の読者は少なくないと思います。もし、漱石の作品をはじめて読む人がいれば、『The Three Cornered World』を最初に読ませるほうがよいと思います。私の経験によりますと、欧米の読者は絶対がっかりしないと思います。

しかし、『草枕』と『The Three Cornered World』の違いには、もう一つの大事なポイントは、翻訳そのものの質です。いうまでもなく、ターニーの翻訳はきれいな英語を生かして、大変和やかな翻訳ですが、皮肉なことに、翻訳のほうが原文より読みやすいです。『草枕』には、四字熟語が多くて、難しい文章がたくさんあるので、現代の日本読者にとっては、それほど読みやすいとはいえません。一方、ターニーの翻訳にはその「難しさ」が消えてしまいました。しかし、翻訳に見事に残るのは、言葉の美しさと、芸術などに対する深い考えと、漱石独特のユーモアです。

言うまでもなく、『草枕』を日本語で読む人と、『The Three Cornered World』を英語で読む人の共通な印象も多いです。たとえば、漱石が『草枕』で西洋文学のような小説ではなくて、俳句のような超越した「東洋的な」美しさを表す、世界初めての「俳諧小説」を書いたということです。

そして、『草枕』の楽しさは、小説全体の概念だけではなくて、所々の短い指摘にあるといえます。画家が羊羹を鑑賞する場面、あるいはグーダルという無名なイギリス画家の面白さを指摘する場面は、永久に私の記憶に残っています。

今度、『The Three Cornered World』の新版が出版されますが、はじめて詳しい解説を載せることによって、英語圏の読者に、『草枕』の文芸的な背景を細かく説明したいと思います。たとえば、「非人情」という画家の観念が、どのように、『文学論』で表された、文学に対する漱石の観念と関連するか、と探りたいと思います。そして、漱石初期のさまざまの作品に、視覚芸術を文芸作品に融合させる試みがありますが、姉妹芸術である「美術」と「文学」を一致させようとした漱石の最も大事な小説のひとつは『草枕』です。

英語圏の読者がもう少し夏目漱石の人生や思想などを、そして明治日本の歴史的な背景を知っていれば、世界文学の傑作である『The Three Cornered World』に対する新しい評価が生まれるではないか、と大きく期待しています。