2018年3月18日日曜日

漱石の後を継いだ男 


東京大学で英文学を教えるローレンス・ウィリアムズ博士は、先日、愉快な解説とともに、大変興味深い写真をフェイスブックに載せた。それは、雑司ヶ谷墓地にある、彼と同じ名前を持つ東京大学の先人、ジョン・ローレンス博士の墓であった。東京大学は、過去の教授達の墓を、今でもちゃんと面倒を見ているようで、感心なことである。

ジョン・ローレンス博士は、1906年から、1916年に亡くなるまで東京大学で英文学を教えたが、私も一言、ジョン・ローレンス博士についての私なりの意見を言わせていただきたいと思う。

ジョン・ローレンス博士は、今日ではあまり知られていないかもしれないが、実は日本文学史において、興味深い役割を担った人なのである。これは周知の事であるかもしれないが、1903年の初頭、かの夏目漱石(1867~1916)は、ロンドンで2年間留学して英気を養った後、あの有名な小泉八雲 (1850~1904)の後を継いで東京大学で英文学を教えることになった。しかし八雲の生徒からは、あの人気があったアイルランド人の作家が辞めさせられたと、猛烈な反対に会った。

最初は猜疑の目で見られた漱石であったが、間もなく東京大学では彼の信奉者ができてきた。漱石の講義は、八雲の芸術的なやり方に比べると、いやになるほど分析的であったにもかかわらず、である。しかしながら、漱石は大学で教鞭をとることを次第に面倒に思い始めた。漱石は第一高等学校(旧制一高:かつての帝国大学の予科)ででも教えていたが、彼の教授職への希望は受け入れられず、単に東京大学と第一高等学校で講師として教えるのみであった。

漱石は外国人の教師、アーサー・ロイド、そして早熟の文学者であり詩人の、上田敏とともに東京大学で教えていた。上田敏は八雲の愛弟子で、八雲が辞めさせられた事への怒りを鎮めるために雇われた。八雲のような西洋の学者を、漱石や上田敏のような日本人の秀才と入れ替えようという日本政府の企みは、着実に進んでいたというわけだ。

しかし、すぐに何もかもがうまくいかなくなって行った。何と言っても、漱石がいよいよ教えることと学者であることに嫌気がさしてきたようで、とうとう1906年の7月には京都帝国大学の教授職を辞退してしまった。漱石は、おそらく、人に雇われたくなかっただろうし、自分の言いたい事を言いたかっただろうから、自身の創作を始めた。彼は東京帝国大学を辞めたかったが、政府の金で2年間もロンドンに遊学した手前、単に辞職するのにはさすがに気が引けた。しかし、誰か著名な外国人の教授が後を継いでくれるならば……

この時点で、学部はジョン・ローレンス博士を雇う事を決めた。彼は、漱石がロンドン滞在中の1901年にその講義を聞いたことがある、中世英文学の専門家、ケア教授の同僚であった。(ただ、漱石はその講義を大したものだとは思わなかったようだが。)1906年にローレンスが東京に着いた時、彼は55歳で、日本語は少しも話せなかった。ローレンスはパリ、ベルリン、プラハ、など様々なところで研究生活を送った経験があった。そしてその彼が、近代日本の偉大なる知性である漱石から、教職を引き継いだのであった。漱石は1907年の2月に正式に退職した。

そのうえ、漱石の同僚、上田敏までもが同年の11月に、ヨーロッパに留学するために退職した。英文学部は、突然、日本人教師が一人もいない状況になってしまい、主な責任はこの日本に関しては新米の、ジョン・ローレンスが負う事となったのである。

さらに悪い事には、ジョン・ローレンスは実は文学批評はからっきしだめで、実際、何の批評もしなかった。ローレンスは保守的で、文学作品について教えるということは、それを新しい観点から分析することではなく、むしろ言語学的、歴史的詳細に自分を埋没させることにあると信じていたのだった。(今でもそのような学者は確かにいるが……)

漱石の1908年の小説、「三四郎」を読むと、漱石がその2,3年前に学生が猛反対する中、八雲を引き継いだ時の騒ぎと、ジョン・ローレンスのもとでの授業の様子とを書いたと思われる部分がある。漱石は実際、三四郎が「Answer」と言う言葉のアングロサクソンの語源を学ぶ場面で、ローレンスのことをばかにしているのがわかる。

ローレンスの専門は、Gothic(使われなくなったゲルマン言語)とアイスランド語であった。野上豊一郎の小説、「みな」では、ローレンスと思われる登場人物の描写で傑作な場面がある。その人物がロバート・バーンズの詩を生徒と読んでいると、生徒が「stroan't」というスコットランド語はどういう意味かと聞く。実はその言葉は、「放尿する」という意味だったので、ローレンスはいやいやながら、その意味を説明しなければならない羽目になったのだった。

八雲や漱石と違って、ローレンスはほとんど出版物を出さなかったが、学生たちにさほど尊敬されていなかったとはいえ、八雲や漱石のように、その創作意欲が学究的生活に収まりきらないで、時々不愉快な行動に出ると言う事はなかった。反対に、ローレンスは大学の生活にぴったり合っていた。彼は、英文学部でセミナーを創設した。学生は試験に合格しなければそのセミナーに参加できなかったし、言語的に才能のある学生しか彼のサークルには入れてもらえなかったといえども。ローレンスは、こうして、その時代の著名な英文学者達から支持されていくことになるのであった。その中には、その後半世紀にわたって英文学の重要な研究に多大な影響をもたらした斎藤勇も含まれていた。

天才的短編小説作家、芥川龍之介や、劇作家久米正雄は二人とも漱石の弟子であったが、ローレンスがいた英文学部の卒業生でもあった。右の写真には、左端に久米、芥川が右から二人目、東京帝国大学の同期で小説家になった松岡譲―彼は漱石の長女と結婚するのであるが――が左から二人目、それにこれも作家になった成瀬誠一が右端に写っている。この4人が文芸雑誌「新思潮」を創刊したのであった。

八雲や、漱石、それに上田敏がいた頃の東京帝国大学の英文学部の教員のレベルは、世界的に見てもまたとないほどのものであっただろう。ローレンスにとっては、そのような天才達から教職を引き継ぐ事は、毒の入った聖杯を飲むようなものであったと思われる。

東京大学が、いまだにかつての教授たちの墓守をしているとは感心な事だが、私としては、東京大学はその英文学における遺産に、もっと誇りを持つべきだろうと思えてならない。時々は、東京帝国大学での英文学部の歴史と、それがいかに近代日本文学を変革したかということを、祝うとともに探求するシンポジウムをしてみるのもいいのではないだろうか。

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