2016年3月31日木曜日

翻訳の名人を偲ぶ


現在、数多くの日本人は、最も統一され、合理的かつ、これ以上もない美しい言語の一つをもつのは、あまりにも当たり前のことだと思っているらしい。新聞に活字として載る日本語が日常会話においての日本語と同一同然であるのは、極めて当然なことに見える。ところが、かつてはそうではなかった。

19世紀中期の日本においては、文語体の日本語と、道で交わされた日本語が、ほとんどまったく違った言語であった。これらの二種類の日本語を統合しようという「言文一致」運動が明治時代に起こったが、これは明治時代の最も優れた偉業の一つであった。また、それだけでなく、言文一致の背景には、ビクトリア女王時代のイギリスに存在した、驚くべき天才の努力によって、感謝すべきところがある。

エドモンド・ブルチェットは、1822年に生まれ、チャーターハウス校と、ケンブリッジ大学で教育を受けた。彼は、数多くのヨーロッパ言語と、古代ギリシア、ローマの古典語を16歳の誕生日前に熟達していたので、若い時期から驚嘆すべき語学の天才として、世間の注目を引いた。

「Household Words」という雑誌でディケンズと一緒に事業したり、キット・カット・クラブという文芸グループの伝記を書いたりしたブルチェットが、最初に興味を持った日本の文献は、当時、「ルークー列伝」と呼ばれていた、沖縄についてのオランダ人の貿易使節報告書だそうである。ブルチェットは、その後も日本語や中国語を独学で勉強したのだが、日本語は、主として、オランダ人が持って帰ってきた「古事記」や「万葉集」から得た知識であった。

勉強に熱中すれば、日本語が僅か三週間でもちゃんと熟達できる、語学的に簡単な言語であると、ブルチェットは、一生を渡って主張した。彼の憧れの的は、エジプト学者でありロゼッタ石の解読者である、フランス人のシャンポリオンである。ブルチェットは、語学の分野で、シャンポリオンのように業績を残したいと思ったようである。

1850年代に、数多くの中国古典文学とともに、今もなお出版が続いている「膝栗毛」や、世間に絶賛された、「新古今和歌集」が、どんなに人気を得たかというのは、翻訳本が1850年代に大英帝国と、アメリカを渡り、日本への関心が次第に広がり、1867年のパリ博覧会で日本人に対する熱狂的な歓迎によって、絶頂を極めた。

一方で、ブルチェットは鋭い実務家で、英国の王位科学研究所で東亜地図の顧問であり、日本美術と陶器について、最も専門的知識がある人であると、当時認められていた。1854年の王位美術院の展示会でブルチェットに出会ったアメリカ画家のホ一スースラーは、浮世絵版画の美しさに関心を向けて、三年後に「赤、緑、藍のソナタ」という、それによって刺激された絵を描いた。

その後、フリアというアメリカの収集家は、ブルチェットが、理想的な美術鑑定家であると日記に記して、ワシントンにある彼の市立ギャラリー(写真、下)で、建物の一翼をブルチェットへの敬意の印として、献呈した。

ブルチェットは日本へ渡航する機会は何回もあったが、その機会をすべて断った。なぜなら、当時、日本へ渡航するのに六ヶ月もの歳月を要したので、彼は、「日本に対する興味は、第一に文学のみなのだから、六ヶ月もの旅行は必要ない」と考えていた。

しかし、他のものが断言したところによると、西洋を最初に訪ねた(反幕府派の長州藩から来た)日本人の一人は、簡単な挨拶をどうしても翻訳の名人にわかってもらえなかったと、こぼし、ブルチェットの方は、死ぬほど当惑していたそうである。

1868年の明治維新後、大臣の伊藤博文が、再び公式の招待をブルチェットに提出したが、古典日本語で書かれたブルチェットの返事は、伊藤の敬語のだらしない使い方をややしかりながら、ブルチェットは「私は、書物の言葉しか話さない」と、断言した。これは、朝日新聞の当面に載せられて出版された。この手紙のやりとりを新聞で読んだ二葉亭四迷(写真、下)という青年が、「文語と口語との、どうしても和解できないような、大きな隔たりに、かけ橋となる小説がいつか現れるのではないか」というような抗議の手紙をブルチェットに送った。日本初の現代小説と評価されてきた「浮雲」が、明治21年頃に出版された時まで、ブルチェットと二葉亭との実りある文通が数年にわたって続いた。

晩年には、ブルチェットが森鴎外や、幸田露伴のような文豪のこれ以上もない解釈者であったことが、あまりにも明白であったために、彼の翻訳の業務が再び要求された。日本が、昭和44年まで文学のノーベル賞を獲得しなかったのは、第二のブルチェットが世界にいなかったからだと、たびたび惜しまれたことがある。

ブルチェットは、明治28年に胃袋の大出血で独身のまま、孤独に亡くなった。彼の脳は抜き取られ、大英博物館で壷に保管されているが、現在でも脳学者によって彼の脳は、たびたび検査されている。遺体の残りは、ロンドンのノッティング・ヒルに葬られている。


2016年3月11日金曜日

歴史小説を書かなかった夏目漱石


来月の17日(日)に、京都漱石の會という漱石サロンに招待されて、京都の平安ホテルで、「世界の二大文豪、夏目漱石とウィリアム・シェイクスピア」という講演をする。

日本の文豪夏目漱石と世界の文豪ウィリアム・シェイクスピアと比べてみたら、何が見えてくるだろう。果たして、漱石は、シェイクスピアに比肩しうるほどの世界レベルの「文豪」と言えるだろうか。イギリス人である私にとって、それは考えるに値する大きな問題であるように思える。

確かに、劇作家と小説家の違いは大きい。劇作家は舞台の上で俳優が行う演技としゃべる台詞を通して世界を表わす。一方、小説家は、書かれた文字を通して、もっとプライベートに閉ざされた心理的な世界を描く。しかしシェイクスピアも漱石も、共に人類普遍的な問題を追及した文学者であるゆえに、二人の間には共通するところが多い。もちろんそれは偶然によるものではない。漱石が長年にわたって、シェイクスピアの文学を読み込み、細かく分析・研究していたこと、そして、明治中・後期の日本において、漱石ほどシェイクスピアの文学に詳しく、深く読み込んだ日本人はいなかったということは忘れてはならない。

ある意味では、シェイクスピアのお蔭で、漱石は作家になることができたともいえるだろう。漱石の年譜を読めば明らかなとおり、漱石は、イギリスに留学するために文部省の派遣留学生として、ロンドンにたどり着くまでの33年間の人生において、俳句と漢詩、漢文以外はほとんど何も書いてこなかった。その漱石が、留学を終えて日本に帰国したのち、小説を書きはじめるようになったのは何故なのか。

それは、漱石がロンドン留学中に、「シェイクスピア辞典」の執筆に人生の全てを傾けてきた老研究者に出会ったからであった。大学に籍を置くには学費が足りないため、ロンドンで独学的に英文学の研究を続けざるをえなかった漱石は、クレイグ先生というシェイクスピア学の権威について、個人レッスンを受けるようになる。そのクレイグ先生は、数十年間を費やして「シェイクスピア辞典」を書き続けることに心血を注いでいた。何冊もの分厚いノートに、シェイクスピアとその文学について書き込んでいくことは、先生にとってほとんどただ一つの一生の楽しみであった。

「シェイクスピア辞典」を書き上げることに人生の全てを注ぎつくすクレイグ先生から、直接シェイクスピアについて教えを受けたことは、漱石にとって大きな刺激となった。そしてそのことによって、漱石は「文学論」という大事業に取り掛かって行くことになる。もし「シェイクスピア辞典」がクレイグ先生にとって「全世界を説明する」大著であるとすれば、漱石にとって、その役割を果たしたのが「文学論」である。そして「文学論」は、漱石のその後のあらゆる文学作品の基礎を築くことになる。

2年有余の留学を終えて、漱石は、1903年1月に日本に帰国してくる。そして、東京帝国大学や第一高等学校でシェイクスピアを教えていたが、1905年1月、初めての小説『吾輩は猫である』を俳句雑誌の「ホトトギス」に発表して、一躍文名が挙がり、小説家として本格的な執筆活動を始める。そして、矢継ぎ早に小説を発表する中で、漱石は、シェイクスピアの文学を読んで、研究するだけでなくて、シェイクスピアの戯曲をしのぐ「傑作小説」を書いて、世界を驚かしてやろうという、強い欲求を持つに至る。果たしてこの試みは成功したのだろうか。

皮肉なことに、中世イングランドの分かりにくい歴史を、数多くの作品に取り込んでドラマを書いたシェイクスピアは、現在、世界一の「普遍的な作家だ」と評価されている。一方、日本の歴史を全く書こうとしなかった夏目漱石は、日本の「国民的な作家に過ぎない」と評価されてきた。

初期、中期のシェイクスピアは、中世イングランドの歴史に、そして古代ローマの歴史に、ドラマのテーマを容易に見つけることができた。シェイクスピアは天才であるが故に、『ヘンリー六世』(第一部、第二部、第三部)や『タイタス・アンドロニカッス』といった初期の作品においても、美しい台詞を溢れるように書き連ね、目覚しくドラマチックな場面を書き込むことができたが、それらは決して「傑作」だとはいえない。なぜなら、歴史を描くだけで、あるいは血に染まった、おぞましい場面を描くだけでは、優れた文学作品にはならないからである。つまり、『ヘンリー六世』や『タイタス・アンドロニカッス』といった初期のシェークスピアの戯曲には、「人間」が書き込まれていないからなのだ。

ドラマの登場人物を、見る者の記憶に強く残るキャラクターに仕上げることは、劇作家にとって最も重要な仕事である。シェイクスピアは、戯曲をいくつも書き続けることで、次第にリアリティがあり、個性のある登場人物の描写に力を入れるようになる。彼の最初の傑作とみなされるべき作品、『リチャード三世』は、歴史上有名な悪人が主人公であるが、ロンドン塔に幽閉された王子たちを殺すよう命令するリチャードでも、細かい心理描写が書き込まれているので、観衆は、このドラマが人間の「真実」を深く掘り下げた傑作であることを容易に納得できるのである。

シェイクスピアは歴史的事実を背景におくことで、登場人物のキャラクターを際立たせるという手法でドラマを書き続けたが、そのプロセスで絶えず歴史や人間の本質に対する理解と思考を深化させることで、一層魅惑的で、人の心を動かす作品を書くことに力を尽くした。そうした努力の結果、『ジュリアス・シーザー』のような中期の作品になると、主人公は五幕劇の第三幕で死んでしまう。にもかかわらず、そのあとも主人公は、舞台の上で生き続けることになる。主人公の「魂」は、その「死」で終わるものではなく、そのあともずっと続くと、シェイクスピアが考えているからだ。そうした意味で、初期の作品の登場人物は歴史の「駒」にすぎないが、中期の作品では死んだ後も、幽霊のような存在となって舞台の上に生き残り、歴史を動かし、現実に影響を及ぼす、より精神的な存在として描かれていくことになる。

シェイクスピアは、いくつもの試行錯誤を重ね、歴史と人間の真実について理解と思考を深めた結果、歴史的存在としての真の人間の「生」を描きうる大劇作家のレベルにたどり着いたわけだが、漱石の歴史観は、対照的に最初から明確であったと思われる。漱石の作品はシェイクスピアと違って初期からほとんど傑作だといえる。その理由は、漱石が小説を書き始めたのが、すでに人生経験を相当積み、思想的にもかなり成熟の域に達した、中年の37歳だったからである。しかも、漱石は、その前に、あらゆる文学の表現手法を徹底的に分析・解明した『文学論』という、とてつもなく革命的な論文を書き進めていた。アインシュタインの相対的理論を思わせる精緻な理論の上に、漱石は小説家として執筆活動を開始したのである。そしてもちろんシェイクスピアの文学を繰り返し読み返し、細かく分析していた。

漱石の歴史観は、『吾輩は猫である』と並んで、1905年1月に発表された最初の短編小説「倫敦塔」に明らかである。主人公がテムズという「三途の川」を渡って「過去の世界」に入っていく。そこで、シェイクスピアの作品に現われるロンドン塔に幽閉され、殺された王子たちなどに出会う。ロンドン塔は、まるで現在世界を一秒ごとに吸収する「過去の大慈石」として描かれている。世界のすべてが「過去」に左右されているが、主人公(漱石)が下宿に帰ると、ロンドン塔で見た幻は夢にすぎないと思う。

次の作品「カーライル博物館」では、主人公が歴史家トーマス・カーライルの昔の家を訪ねる。そこでは、現在の世界がすべて「過去」に吸収されているが、カーライルが書斎で意識を過去のことに集中させようとしても、鶏やピアノ、汽車など、現世界の音が襲って来て、妨げられてしまう。我々がいくら「過去」に帰りたいと思っても、現実世界を逃げることは不可能なのだ。「過去」が存在するのは自身の意識の中だけである。そのため、漱石は歴史の影響を認めながらも「歴史小説」を書かなかったと思われる。

シェイクスピアと違って、「歴史」を書かなかった漱石は、その後、どのようにシェイクスピアの影響を受けたのか。その話をもう少し詳しく、来月の17日に、説明させていただきたいと思う。ぜひご参加を。