2022年3月30日水曜日

ユーモアがなく、イデオロギーだけで動く社会

1990年代の始め、イギリスではチェコスロバキア生まれの作家ミラン・クンデラ氏の小説が大流行した時期があった。近頃では、私はクンデラ氏の軽い小説の筋もほとんど忘れてしまっていたが、最近クンデラ氏の故郷、チェコ共和国を再訪した時、彼の創作上の宇宙が、私の心の中の記憶を思い起こさせたのだった。

クンデラ氏の偉大なるテーマの一つは、チェコの人たちが冷戦下の抑圧的な共産党体制にいかに適応したか、と言うものだった。「存在の耐えられない軽さ」(1984年)などに描かれている性的開放は、1968年にロシアが「プラハの春」を抑圧して以来、政治的な自由が否定されたことに対する一種の代償として提示されている。

しかし、もう一つの興味深いクンデラ氏のテーマは、ユーモアと言うものが、破壊に導く役割を担っていると言う事だ。彼の最初の小説、「冗談」(1967年)で、クンデラ氏が描写するのは、陰気で、ユーモアが全くなく、イデオロギーだけで動く党の役人達によって運営されている共産主義国家に住み、自分の住むコミュニティの中で、自分が体制に従っていて、その通りに行動していることを示すことに必死になり、そうでなければ隣人にでも同僚にでもすぐに告げ口されてしまうような、そんな国に住むことの悲劇的な結末だ。そんな国では、冗談を言う事は危険な事なのだった。

一体どうやってこのような恐ろしい状態が持続可能だったのか?それは、純粋に共産主義を信ずることが「ファシズム」が再来しないようにする砦だと民衆に教え込むことによってだった。ベルリンの壁が1961年に建てられた時、それは、ソビエトブロックの人々には自由への障壁としてではなく、「ファシストから守る壁」として提示されたのだった。

学生時代の私は、このようなソビエトの事を、まるで奇妙な、遠い「他の世界」の事を読むようにして読んだものだった。しかし現在世界で起こっている事は、クンデラ氏が書いていたことにあまりにも近づいているようだ。現在、欧米の社会とメディアに溢れている、ユーモアがなく偽善的な純粋主義のせいで、右翼や、男女間差別や、政治的公正に関する意見など、あらゆることが取りざたされている。まるで共産主義の役人が、それは「ファシスト」的心的態度だと言って取り締まるかのように。

全く受けないユーモアもあれば、バカにされるユーモアもあるが、もし我々が心的抑圧の「ベルリンの壁」の向こう側に永久に囚われたくないのであれば、もっと図太くなって、ユーモアとして笑い飛ばせるようにならなければならないのではないか、と私は思わざるを得ない。

正午に死にたかった三島由紀夫

去年の11月25日に、三島事件は45年記念を迎えた。その機会に、細江英公氏の傑作写真集「薔薇刑」(1963年)が再出版された。ページをめくり、一つの写真に出会うと、ぞっとする。三島が、ちょうど正午を示しているでかい時計を抱えているポーズだ。

三島は一生に亘って時計、腕時計、そして時間そのものに執着していた。友人の回顧録を読むと、約束を厳守することに、三島がどれほどうるさかったかという話が、頻繁に出てくる。遅れることが大嫌い。おびただしい原稿を出しているが、出版社の締切に間に合わなかったことは、一度もない。

そして相手にも遅れることを絶対許さない。作曲家・黛敏郎さんと一緒にオペラと作ろうとしたが、しめきりが近づき、黛が「もう少時間を下さい」と頼むと、三島は激怒し絶交してしまった。一方、一番尊敬する人に対しては時計をプレゼントした。

三島事件は細かいスケジュールの上に立てられた計画だった。午前11時に、三島と縦の会の四人の仲間が自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室に入り、挨拶を交わして間もなく、突然総監を拘束した。駐屯地の全自衛官を11.30時前に集合させないと、総監を殺すと脅した。三島がバルコニーに出て、全隊員に向かって30分の演説をし、その後12時に自決するという計画だった。

しかし計画のスケジュールが狂った。二回に亘って、木刀を持った自衛隊の将校たちが総監室に突入し、三島と縦の会の四人と戦ったのだ。しかし、関孫六の刀をふるっていた三島に対抗できず、後退させられた。

このため自衛官達が集合したのは、11.30時前ではなくて、12時前だった。三島はバルコニーに出た時に、「遅れた」と憤慨していただけではなくて、「これは僕が既に死ぬべき時間だ」と思っていたに違いない。



バルコニーでの演説で三島は、「待った、待った、もう待たない」という気持ちを強調する。なにを「待った」かというと、ベトナム戦争に反対していた学生たちのデモで、警察が学生の人数に圧倒されて、内乱を収めるため自衛隊が動き出す日を「待っていた」という意味だ。自衛隊が動員されれば、日本は軍隊を必要とすることを国民に認めさせられる、そうなれば、憲法を変える日が来るという三島の考えだ。

しかし、自衛官達には、「待つことが大嫌いな三島」の人格がわからない限り、どうして「待たされた」という不満が三島を奇矯な激動に駆り立てたのかはわからない。マスコミのヘリコプターの騒音や、自衛官達の野次のために、30分のはずの演説は僅か7分で終わってしまった。三島が皇居の方向に跪いて、「天皇陛下万歳」と三回叫んで総監室に戻り、切腹の準備を始めた。最後の仕草は高級腕時計を外して、縦の会の仲間に渡すことだった。自決したのは午後12時15分ごろ。

ちょうど正午に死にたかった、時間に厳格であった三島。細江英公氏の1961年の写真をみると、その最後の15分がどれほど三島にとって悔しかったかということは、しみじみと胸に答える。