去年、ガーディアン(イギリスの大手一般新聞)で、作家のステファン・マルシェ氏が「Centireading」(百回読み)という言葉を作って、同じ文学作品を100回読む事の功罪について話していた。これを読んで私は考えた。もし日本の文学作品の中から、100回読むに値するものを選ぶとしたら、何を選ぶだろうか?
2,3回読み直してみたい作品ならたくさんある。たとえば「平家物語」や、谷崎潤一郎の「細雪」とか、江戸川乱歩の作品などが頭に浮かぶが、100回、となると….. 5回読むのでさえ、「源氏物語」のような大長編や、現代の小説はお断りである。
それなら答えは一つしかないと思った。夏目漱石が1906年に書いた、「坊っちゃん」である。「坊っちゃん」なら、100回読んでも絶対飽きないと、断言できる。実際、毎回、きっと何か新しいことを得ることができると思う。その理由を説明しよう。
まず最初に、何といっても読みやすい。100回も読むなら、読み進むのに難しすぎるものや、長ったらしくて、校正が必要なようなものは御免こうむりたい。一つ一つの言葉に意味があり、やめられない面白さがあるものが必要だ。「坊っちゃん」なら、最初の文から興味を引かれ、最後までわくわくしどうしで、読み終わったとたんにまた最初から読みたくなる。何度でも、何度でも。
「坊っちゃん」がこんな風なのは、それが書かれたいきさつにもよるだろう。漱石はこの小説を、教師を3校掛け持ちしていて、帰ってきたら4人の小さい子供が待っている生活の中で、暇を見つけては、2週間足らずで書き上げたのだった。その翌年には、教師をやめて、朝日新聞のための専属作家となった。しかしこの1906年に書かれた傑作は、まるで止めることのできない火山の噴火のように、彼の中から湧き出たのであった。
二つ目の理由は、「坊っちゃん」は、ウディ・アレン氏の言葉を借りるなら、「フルコース」のディナーであるということだ。100回も本を読むなら、どのジャンルの本がいいか?コメディ、諷刺もの、それとも自叙伝、それともエレジー?「坊っちゃん」は、このようなすべてのジャンルの要素を組み合わせたものと言えるだろう。
この作品は、日本文学の中で一番面白いコメディだと思われているだろう。実際、坊っちゃんが地方の方言で苦労するとか、それに対して自身の東京人のべらんめえ口調で応答するとか、あるいは生徒がいたずらで布団の中に入れたイナゴと格闘するとか、大声で笑えるようなシーンがたくさんある。
しかしながら、「坊っちゃん」の中には悲劇的な要素も多々あるということに、たいていの人は気づかない。母親のような、年を取った女中で、東京に置いてきた清に対する慕情が、その中心である。小説の最後で、坊っちゃんはアイデンティティの危機に陥り、彼の無鉄砲で自由奔放であった短い時期は終わりを遂げるのである。
しかし「坊っちゃん」はこれだけではない。それは、明治維新の後起きた、将軍側についた者たちと、旧体制を打ち破った者たちとの間の不和を諷刺したものである。そして、坊っちゃんが赴任した中学校の教師たちにつけたあだ名も、東京帝国大学での、漱石自身の傲慢な同僚たちを諷刺するためのものだった。
松山と近くの道後温泉は、漱石が若い時に1895年から96年にかけて教師として教えていた場所で、この小説の舞台だと考えられていて、今日まで旅行者が絶えない。しかし、漱石の自叙伝のもっと違った部分も、この小説のところどころにさりげなく織り込まれている、ということに気づく人はあまり多くはない。たとえば、坊ちゃんが遠い東京にいる清をなつかしむ様子は、実は漱石が1900年~1902年にかけてイギリスにいた時、日本にいる彼の妻、きよ、に会いたくて仕方がなかったという経験をしたことの反映である。
そして三つ目の理由は、際限のなさだ。もし同じ本を100回読むとしたら、その本は、読みやすく、「フルコース」であるだけでなく、ほんのちょっとした事が実は深い意味を暗示していて、何度読み返しても際限なく新しい洞察を提供してくれるものでなければならない。たとえば、坊っちゃんが子供の時、その栗の実が「命より大事だ」ような栗の木の意味は何か、とか、どうして宿敵、赤シャツは、いつも赤いシャツを着ているのか、とか、坊っちゃんとその仲間の山嵐が赤シャツに最後に挑む時、「天誅党」と銘打ったのがなぜそんなに皮肉なのか?など、など。
「坊っちゃん」は、結局、現代の世界そのものの話だと言えるだろう。坊っちゃんは、誇りある士族の子孫で、田舎者を侮蔑しているが、東京と田舎との間で近代化に差があるのは、日本が近代化し、西洋化しようとしている過程の産物そのものであると言う事に気づいていない。「坊っちゃん」は、普遍的な状況を語っているのだ。我々は、我々の洗練さと近代性を誇りに思うが、結局はもっと寛容で、優しかった、古き良き時代のイメージを拭い去れないのだと。
本当に、私が無理なく100回読み返せる本は、「坊ちゃん」しかないと思う。まだ読んだことがないとしたら、少なくとも一度だけでも、読んでいただけるようにお願いしたいものだ。
2017年1月6日金曜日
2017年1月4日水曜日
アーサー・ウェイリー賞を提案する
私は、いつも文学の持つ力を強く信じている。たとえそれが、往々にして目に見えない力だとしても。時折、本の世界が人間界の事件に介入して、明白で重要なメッセージを送ってくれることがある。
東アジアの国々の間で、政府間の怨恨がいよいよ深まっていくのを、私たちは失望の念を持って見守って来た。中国、日本、そして韓国との間の疑惑と相互蔑視の関係、そして言うまでもなく、ベトナムやフィリピンにまでも及ぶ緊張した情勢、あるいは北朝鮮との間の膠着状態など、とどまるところを知らない。
ここで私は、新しい文学賞を創設することで、東アジアの国々の相互関係を改善することができるのみならず、世界中で東アジアの文化をもっと理解してもらえるようになる、と提案したい。
私が何を言わんとしているのか、少し説明しよう。
日本研究の分野では、日米友好日本文学翻訳賞と呼ばれる賞があるが、これは西洋における日本文学研究者に与えられる文学賞である。
私は過去(2005年)にその賞をいただいたので、先日、その賞に推薦すべき新しい作品があるか、というメールをもらったが、その賞の受賞資格に、見逃せない変化があることに気づいたのである。すべての候補者は、アメリカ人でなければならないと。以前は、私のようなイギリス人を始め、カナダ人、オーストラリア人など、英語圏の研究者なら誰でもその賞をもらえたというのに、今や必ずアメリカ人でなければならないというのだ。
確かに、「日米友好関係」というのだから、そもそもアメリカ人でない者でももらえる、というのは奇妙かもしれないが、しかし、アメリカ人に限定するというのは、私には時代に逆行しているように思えた。この賞を、英語圏の誰にでも授与するというのは、アメリカが英語圏における主導者であることを大胆に自信を持って肯定し、それとともに文学は国境に妨げられるものではないと言う事を承認しているように思えたというのに。
この賞の理事会が、このような狭量な措置を取ったことを嘆いたが、しかしこの事のせいで、これはもしかしたら、新しい賞を創るいい機会かもしれないと思い始めた。単に最も優れた翻訳にのみ賞を授けるのではなく、歴史ものであろうと批評であろうと、一般の読者に、日本に対する新しい洞察と理解の仕方を提案する本のための賞があってもいいものだ、といつも思っていたのだから。
その賞の名前は、もう決めていた。「アーサー・ウェイリー賞」だ。
アーサー・ウェイリー(1889年~1966年、ロジャー・フライによるポートレート、上)はイギリス人で、おそらく日本と中国の文学の最も優れた研究者であると言えるだろう。彼は、源氏物語を英語に翻訳し(原文と、ウェイリーの翻訳本の表紙、下)、イギリス人の小説家、ブァージニア・ウルフからアメリカ人の詩人、エズラ・パウンドにいたるまで、様々な人々が彼の日本、そして中国の有名な作品の詩的な翻訳を読んだ。あの偉大なる日本文学者、ドナルド・キーン氏は、彼の長い人生の中で、世界中の一流の知識者や作家に会ってきたが、真の天才は二人だけだった、と言った。一人はアーサー・ウェイリーで、もう一人は三島由紀夫である。キーンは、日本文学に専念することで、「アーサー・ウェイリーの半分ほどにでも」なりたいものだと言った。
ウェイリーは、イギリスが生んだ学者の中でも一、二を競う偉大なる学者であるにもかかわらず、ほとんどイギリスで知られていないので、この賞を創ることで彼の不朽の業績を讃えることになるだろう。
しかしながら、私は考えた。「アーサー・ウェイリー賞」が、日本に関する本だけに与えられるのは、何かおかしくないか?ウェイリーは、中国の優れた作品における功績でも同じように知られているのだ(作品の例、下)。中国に関する本も、この賞に含まれるべきではないか?
最初、私はそうすることに躊躇して、これでは個別の文化をひとまとめにして「東洋文化」と呼んでしまう古いやり方と同じではないか、と思った。しかし他の視点から見てみると、ウェイリーがした事は、今日の世界があまりにも必要としている事だ。つまり、中国と日本とがいかに深く関わっているか、そしてお互いに影響しあってこそ文化的に業績を成し遂げたのだと言う事を承認することだ。
これはよく知られている事だが、ウェイリーは中国と日本の文学作品の研究者であったにもかかわらず、中国にも日本にも一度も行ったことがなかった。ウェイリーは、現代の政治的権力の移り変わりには関心がなく、彼を魅了したのは、日本と中国の不朽の文化的遺産と、それが世界にもたらした影響であった。
だからその賞は、韓国も東南アジアも含んだ、東アジアにおける相互の文化的関係を讃えるものであるべきだと私は思う。偉大なる芸術は、一過性で、くだらないことが多い政治的な揉め事を超越するものだと言う事を、明示する賞でなくてはならない。そのような賞なら、東アジアの文化全体が連帯している事、そして密接に関連している事を示すのみならず、東アジアは西洋の人々にとって、重要であるにもかかわらずいまだに全く理解されていない地域だと言う事を認めるものとなるだろう。
それ故に私は提案する。アーサー・ウェイリー賞は、一流の作家、研究者やジャーナリストからなるパネルによって選ばれた、東アジア文化についての洞察と、より深い理解を提供する事柄について、英語で書かれた本に毎年与えられる賞であるべきだ、と。優れた文学の翻訳から、歴史ものや、批評にいたるまで含まれるべきで、単に学術的な作品にとどまらず、学術的な研究を一般の読者にも広く読まれるように書いた本も含まれるべきである。なぜなら、これこそが、アーサー・ウェイリーの提唱したことであったからだ。
その賞には、誰でも応募できて、毎年の授賞式には、中国、日本、そして韓国政府の代表も出席すべきである。
賞そのものは、東アジアの国の政府による様々な文化的財団から寄せられた基金で一万ポンド(おおよそ150万円)もあれば、その分野での主要な賞として認められるようになるのに問題ないだろう。私自身としては、アーサー・ウェイリーという名前と結び付けてもらえたという事の方が、実際の金銭的な賞よりも有難いと思うが。
アーサー・ウェイリーが究極の詩人、そして研究者であると言えるのは、彼の並外れた興味や知識の広さ、それに彼が自分の発見したことを広く世間に伝えようとした態度からだけではなく、彼の人生の過ごし方そのものにもよるのである。彼は50代後半になるまで、どの大学にも所属しておらず、若いころは大英博物館で古代の美術品の管理者として働き、40歳にして作家として独立した。中国語、日本語は(それにアイヌ語やモンゴル語にいたるまで)独学で勉強した。彼は大学の補助金や奨学金の恩恵を受けることは全くなかった。彼はひとり孤独の中で働いたのだが、壮大な展望を持っていたのだった。
いまだにその業績が認められていない詩人や研究者がいることだろう。彼らは大学に属していないかもしれないし、アメリカで生まれなかったかもしれない。アーサー・ウェイリー賞は、我々が東アジアが共有する文化的遺産をよりよく理解するように尽力した、そのような人達の努力を讃え、公にするものとなるだろう。私は、そのような賞は、東アジアの国々が、お互いが共有するものがいかに深いかと言う事を理解する事に、少しながらでも重要な役割を担うのではないか、と思うのである。
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